ことではない、再び娑婆へ還《かえ》る事です。しかもこの往還[#「往還」に傍点]の二種の回向《えこう》を離れては、少なくとも他力教はないのです。いや、単に浄土教のみではありません。一切の仏教は、ことごとくこの|往相[#「往相」は太字]《おうそう》と|還相[#「と|還相」は太字]《げんそう》との二つの世界を離れてはないのです。因より果に至る(従[#レ]因至[#レ]果)向上門と、果より因に向かう(従[#レ]果向[#レ]因)向下門《こうげもん》、そこに仏教の世界[#「仏教の世界」に傍点]があるのです。「因」とは迷える凡夫です。「果」とは悟れる仏陀《ほとけ》です。迷いより悟りへ、悟りより迷いへ、凡夫より仏陀へ、仏陀より凡夫への道こそ、仏教の道[#「仏教の道」に傍点]です。菩薩の道[#「菩薩の道」に傍点]です。しかも登る道こそ下る道です。下る道こそ上る道です。「上山の道は即ちこれ下山の道」です。
「うき世離れて奥山ずまい[#「うき世離れて奥山ずまい」は太字]」という俗謡があります。あの歌にはたいへん深い宗教的な意味があるかと存じます。「恋も悋気《りんき》も忘れていたが」という、その一句のなかには、迷いの世界と、悟りの世界が示されています。すなわち恋と悋気の世界は、つまり迷いの世界です。あきらめられぬ世界です。だが恋もなく悋気もない世界は、悟りの世界です。スッパリ諦《あきら》めた世界です。もうそこにはうき世の苦しみ、悩みはありませぬ。しかし、果たして自分《おのれ》一人が涼しい顔をして、悟りすましておられましょうか。「鹿《しか》の鳴くこえを聞けば昔が恋しゅうて」とは、決して妻こう鹿のなく声ではありません。恋に泣き、悋気に悩むその声です。社会苦に泣き、人間苦に悩むその切ない叫びです。「衆生《しゅじょう》疾《や》むが故に、われ亦《また》疾む」という菩薩は、とうてい大衆のやるせない叫びに、耳を傾けずにはおられないのです。「他人は他人、俺《おれ》は俺だ」などといって、すましてはおられないのです。「大悲|駭《おどろ》いて火宅の門に入る」で、もうジッとしてはおられないのです。「逢《あ》いたさ見たさに来たわいな」というのはそれです。だが、それは決して久米の仙人《せんにん》が、神通力を失って、下界へ墜落した、というようなものではないのです。それは転落[#「転落」に傍点]ではなくて、随順です。墜落ではなくて、やむにやまれぬ菩薩の大悲[#「菩薩の大悲」に傍点]です。「照れば降れ降れば照れとの叫びかな[#「照れば降れ降れば照れとの叫びかな」は太字]」で、私ども人間は勝手なものです。照ればもう降ってくれればよい。降れば、もうやんでくれればよい。実に気儘《きまま》な存在《もの》です。その頑是《がんぜ》ない駄々《だだ》っ子のような私どもを、ながい目で見守りつつ、いつも救いの手をさしのべるのが菩薩です。げに菩薩とは、自分《おのれ》の生きてゆくことが、そのまま他人の生きてゆく光ともなり、力ともなり、塩ともなりうる人です。
無所得の所得[#「無所得の所得」は太字] 要するにこの一段は私どもにして、一度、菩薩の般若の智慧を体得するならば、何人も心になんのわだかまりもなく、さわりもない、かくてこそわれらははじめて、一切の迷いや妄想《もうぞう》をうち破って、ほんとうの涅槃《さとり》の境地に達することができる。しかもそれが「無所得の大所得」だ、ということを教えたものであります。
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第十講 般若は仏陀《ほとけ》の母
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三世[#(ノ)]諸仏[#(モ)]。
依[#(ルガ)][#二]般若波羅蜜多[#(ニ)][#一]故[#(ニ)]。
得[#(タモウ)][#二]阿耨多羅三藐三菩提[#(ヲ)][#一]。
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災難をよける法[#「災難をよける法」は太字] たしか越後の良寛さんだったと思います。ある人から「災難をまぬがれる妙法|如何《いかん》?」ということを尋ねられたときです。そのとき、彼は、
「病気になった時には、病気になった方がよろしく、死ぬ時には、死んだ方がよろしく候。これ災難を免れる、妙法にて候」
と、答えたということですが、たしかに良寛さんのいうごとく、災難を免れる唯一の妙法は、災難を怖《おそ》れて、それをいたずらに回避することではなく、あくまでその災難にぶつかって、これにうち克ってゆくことです。病気に罹《かか》った時などでも、むやみに早く全快したいとあせらずに、病気を善智識とうけとり、六尺の病床を人生修行の道場と考え、病気と和解し、病気に安住してしまうことです。あのゲーテの『ファウスト』におけるメフィストの、「苦しめることによりて、かえって我れを助け、幸福にする天使となった」というがごとく、病気をいたずらに自分を苦しめる悪魔と考えずに、天使と思って、病気と一つになることです。つまり、病気の三昧《さんまい》に入ることです。そうすればかえって病気は癒《なお》るのです。いや快くならないまでも、病気に安住することができるのです。「病気になった方がよろしく候」というのは、たしかにそれです。病気という災難を逃《のが》れる妙法は、まさしく病気になりきってしまう[#「なりきってしまう」は太字]ことです。病に負けぬことです。私の友人に荒谷実乗という人がいます。たいへん豪胆な、意志の鞏固《きょうこ》な男ですが、彼がかつて軍隊にいた時、何かのはずみ[#「はずみ」に傍点]で、脚部《あし》を負傷したのです。どうしても手術をしなくてはならぬようになって、いよいよ入院して手術室に入りました時、彼は軍医に、麻酔剤の必要はないといって、敢然と手術台に上ったのです。そして非常な苦痛を堪え忍んで、とうとう完全に手術をしてもらったというのです。当時のありさまを彼は私にこういっていました。「自分はどれだけ苦痛に堪え得るものか、それを試《ため》してみたかったのだ」
なるほど、こうなれば人間も大丈夫です。自分で自分を試してみる[#「自分で自分を試してみる」に傍点]、苦痛と戦う自分を客観視するだけのゆとりができれば、もうしめたものです。諺《ことわざ》にも「病は気から」というくらいです。病気に負けてはなりません。病気に勝つことが必要です。いや、勝つか、負けるかを越えて、それにしっかり安住することです。しかしそれは結局、私たちの気持です。心もちです。
今日の問題は戦うこと[#「今日の問題は戦うこと」は太字] 「今日の問題は何か、戦うことなり。明日の問題は何か。勝つことなり。あらゆる日の問題は何か。死すことなり」
と、ヴィクトル・ユーゴーは、あの有名なる『レ・ミゼラブル』の巻頭に書いております。まことに今日の問題は戦うことです。あらゆる災難と戦うことです。清き正しい心をもって飽くなき肉慾《にくよく》と戦うことです。少なくとも「今日の問題」は、所詮《しょせん》、霊と肉との争闘《あらそい》です。しかして、明日の課題は、霊によって肉を征服することです。悟りの智慧によって、迷いの煩悩《ぼんのう》をうち破ることです。だが、あらゆる日の問題は、死ぬことだという、この厳粛なることばを、私どもはよく考えねばなりません。死を覚悟してやる、死を|賭[#「死を|賭」は太字]《と》して戦う[#「して戦う」は太字]、これくらい世の中に強いものはありません。死を覚悟していない、つまり魂をうちこんでいない仕事は、結局、真剣ではないわけです。死を賭して戦わざるものは、いつも敗者の惨《みじ》めさを味わうものです。「あらゆる日の問題は死ぬことなり」という言葉ほど、厳粛な真剣なことはありません。良寛|和尚《おしょう》が、「死ぬ時には、死んだ方がよろしく候」といったのは、まさしくこの境地です。何事も一生たった一度という「一|期《ご》一|会《え》」の体験《さとり》に生きている、あの菩薩の生活態度は、まさしくこの間の消息を、雄弁に物語っておると思います。
三合の病いに八石五斗の物思い[#「三合の病いに八石五斗の物思い」は太字] あの名高い白隠禅師の語録の中に、こんな味わうべき言葉が示されています。病と闘いつつ、ついに病を征服した人のことばだけに、なかなか意味ふかいものがあります。
「世に智慧ある人の病中ほど、あさましく、物苦しいことはなきことなるぞや。来し方、行く末のことなども際限なく思い続け、看病人の好悪などをとがめ、旧識同伴の間闊《とおどおしき》を恨み、生前には名聞《みょうもん》の遂げざるを愁《うれ》え、死後は長夜《ちょうや》の苦患《くげん》を恐れ、目を塞《ふさ》ぎて打臥《うちふ》し居たるは、殊勝《しゅしょう》に物静かなれども、胸中騒がしく、心上苦しく、三合の病いに[#「三合の病いに」に傍点]、八石五斗の物思い[#「八石五斗の物思い」に傍点]あるべし」
と、いかにもその通りで、なまじい学問をした、智慧のある人ほど、よけい[#「よけい」に傍点]に病気を苦にする傾きがあって、容易に病気に安住することはできないのです。どうせこわれものの身体[#「こわれものの身体」は太字]です。おそかれ早かれ、一度は死なねばならぬ、という覚悟ができていそうなものですが、それが実際はできていないのです。いつまでも健康がつづくように思い、いつまでも生きていられるもののように考えているから、いざ病気にでもなると、いらざるよけいな心配までするのです。心配ならよいが心痛するのです。
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死ぬことを忘れていてもみんな死に[#「死ぬことを忘れていてもみんな死に」は太字]
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ですから、死への諦観《あきらめ》は、当然できておらねばならぬわけです。因縁[#「因縁」に傍点]ということくらい、十分に考えておらねばならぬわけです。ところが、事実は全くこれと正反対です。なまじっか学問がある人よりも、かえって学問のない人の方が、あきらめが早いのです。死の覚悟がチャンとついているのです。三合の病いに八石五斗の物思いがなくてすむのです。もちろん、それは決して学問そのものの罪ではありません。学問する人の罪です。
肚でさとれ[#「肚でさとれ」は太字] ただ頭で学ぶだけで、肚《はら》で覚《さと》らないからです。学者[#「学者」に傍点]であって、覚者[#「覚者」に傍点]でないからです。とかく学者は学んだ智慧に囚われやすいのです。いわゆる智慧負けする人が、学者の中には多いのです。しかし「覚者」は智慧に使われず、かえってその智慧を使います。智慧を材料として、それを自由に用いる人が覚者です。私どもは、少なくとも智慧に使われる人であってはなりません。智慧を使う人でなければならぬのです。智慧を人格の素材として、自由にこれを行使してこそ、学問する価値があるのです。学問中毒に罹っている今日の時代においては、この点よほどお互いに考えねばならぬと存じます。
たいへん前置きが長くなりましたが、これからお話しするところは、
「三世の諸仏も、般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》に依るが故に、阿耨多羅《あのくたら》三|藐《みゃく》三|菩提《ぼだい》を得たもう」
という一節であります。さて、三世の諸仏ということですが、いったい仏教では三世[#「三世」に傍点]というのは、いうまでもなく過去、現在、未来を指していったものですが、要するに、三世とは「無限の時間」ということなのです。ところで、この三世といつも並べて使用せられることばは、十方ということです。十方とは、東西南北の四方に、東南とか、東北などという四|隅《すみ》、それに上と下とを加えて、十方というのです。つまり「無限の空間」ということです。ひところ、よく世間で「八|紘《こう》一宇」「世界一家」(世界じゅうの人たちが一家族のごとく相|倚《よ》り相|扶《たす》けてゆくこと)という言葉が用いられましたが、八紘というのは四方八方です。世界、宇宙という事です。十方と同じ意味で、無限の空間、涯《はて》しない世界ということです。要するに三世十
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