にわが民族の理想である、平和な、文化国家の創造に邁進《まいしん》すべきであります。しかし「君子は和して同ぜず[#「和して同ぜず」に傍点]、小人は同じて和せず[#「小人は同じて和せず」に傍点]」と論語にもあるように、附和雷同《ふわらいどう》は決して真の和ではありません。とかく日本人の欠点はこの附和雷同にあるのです[#「とかく日本人の欠点はこの附和雷同にあるのです」に傍点]。大和《やまと》の国、とくに昭和(百姓昭明、万邦協和)の御代に生まれすむ、われわれ大和民族は、決して「同じて和せざる」小人であってはなりません。「和して同ぜざる[#「和して同ぜざる」は太字]」君子でなくてはなりません。少なくとも日本民族の理想は、この和して[#「和して」に傍点]同ぜざるところにあるのです。「国|挙《こぞ》る大事の前に光あり推古の御代の太子のことば」です。
 けだし私どもにして、一たび宗教的反省をなしうる人となるならば、そこにはなんのこだわり[#「こだわり」に傍点]も、わだかまり[#「わだかまり」に傍点]も、障礙《さわり》もないのです。げに菩薩の道こそ、|無礙[#「無礙」は太字]《むげ》の一道[#「の一道」は太字]です。なんの障《さわ》りもない白道です。『心経』に「心に※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙《けいげ》なし」というのはそれです。
 ※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]《けい》という字は、網《あみ》のことです。魚をとる網です。礙《げ》という字は、障礙物《しょうがいぶつ》などという、あの礙《がい》という字で、さわり、ひっかかりという意味です。梵語《ぼんご》の原典では、「※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙《けいげ》なし」という所は「ひっかかりなしに動き得る」とありますが、何物にも拘束されず、囚《とら》われず、スムースに、自由に働き得ることが、すなわち「※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙なし」ということです。金を求め、名を求め、権勢を求めるものには、どうしても※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙なしというわけにはゆきません。金という網、名という網、権力という網にひっかかって[#「ひっかかって」に傍点]、どうしても、無礙《むげ》というわけにはゆきません。求めざるもの[#「求めざるもの」は太字]こそ、「無礙の人」でありうるのです。まことに、ひっかかりなしに、自由に働きうることは、求めざる人によってのみ可能であるのです。次に『心経』に「※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙なきが故に恐怖《くふ》あることなし」とありますが、恐怖《くふ》とは、ものにおじることです。ものに怯《おび》え怖《おそ》れることです。恐ろしいという気持です。つまり不安です。心配です。心の中に、なんの恐れも、憂いも、心配も、苦労もない、というのが、「恐怖あることなし」です。浅草の観音さまへお参りすると、有名な玄岱《げんたい》という人の書いた「|施無畏[#「施無畏」は太字]《せむい》」という額があります。施無畏とは、無畏《むい》を施すということで、元来、仏さまのことを一般に施無畏と申しますが、ここでは観音さまを指《さ》すのです。畏《い》とは恐れるという字です。慈悲そのものの権化《ごんげ》たる観音さまは、愛憐《あいれん》の御手で、私どもを抱きとってくださるから、私どもには、なんの不安も恐れもないのです。だから観音さまのことを、「無畏を施すもの」、すなわち「施無畏」というのです。いったい「施す」ということは、さきほど申し述べました、あの「布施《ふせ》」です。梵語でいえば、ダーナで、あの檀那《だんな》さま、といった時のその「|檀那[#「檀那」は太字]《だんな》」です。だからお寺の信者のことを「檀家《だんか》」といいます。財物をお寺に上げるからです。これに対して、檀家からはお寺のことを「檀那寺《だんなでら》」といいます。「法施」といって、「法を施す」からです。したがって、財物を上げぬ信者は「檀家」ではなく、法を施さぬ寺は「檀那寺」ではないわけです。
 顛倒の世界[#「顛倒の世界」は太字] 次に、「顛倒夢想《てんどうむそう》を遠離《おんり》して、究竟涅槃《くきょうねはん》す」ということですが、普通には、ここに「一切」という字があります。「一|切《さい》顛倒《てんどう》」といっています。ところで「顛倒」とは「すべてのものをさかさまに見る」ことです。無い物を、あるように見るのは顛倒[#「顛倒」に傍点]です。たとえば水はこんなもの、空気はこんなものと局限して、全く性質の違ったものと思うことは、つまり顛倒です。水は温度を加えると、蒸発してガス体の蒸気になります。その蒸気を冷却さすか、または強い圧力を加えると、こんどは固形体の氷になります。しかしいずれも H2[#「2」は下付き小文字]O です。水素と酸素とが、二と一との割合で化合したものです、水は無自性です、きまった相はありません。縁に従っていろいろ変化します。こうしたような事実は、この複雑なる、われわれの世界には非常に多いのです。あの斜視や乱視や色盲のような見方をして、錯覚や幻覚を起こしている連中は、いずれも皆「顛倒《てんどう》の衆生《しゅじょう》」であります。次に「夢想」とは夢の想《おも》いです。したがってそれは妄想《もうぞう》です。つまり、ないものを、あると思い迷う、今日の言葉でいえば一種の幻覚です。錯覚です。「幽霊の正体見たり枯尾花[#「幽霊の正体見たり枯尾花」は太字]」というのがそれです。幽霊だと思うのは、枯尾花であることを、知らないから起こる一種の幻覚です。よく見れば[#「よく見れば」に傍点]、幽霊ではなくして枯尾花だったのです。で、つまり、「顛倒」も「夢想」も同じことで、要するに、私たちの「妄想」です。ですから、「顛倒夢想を遠離する」ということは、そうした妄想を打破ることです。克服し超越することです。その昔、相模《さがみ》太郎北条時宗は、祖元禅師から「妄想するなかれ」(莫妄想《まくもうぞう》)という一|喝《かつ》を与えられて、いよいよ最後の覚悟をきめたということです。
 究竟の涅槃[#「究竟の涅槃」は太字] 次に「究竟涅槃《くきょうねはん》す」ということですが、これを昔から、一般に「涅槃《ねはん》を究竟《くきょう》す」とよませています。しかし梵語の原典から見ましても、「顛倒《てんどう》を超越して究竟《くきょう》の涅槃《さとり》に入る」という意味になっていますから、これはやっぱり「究竟涅槃す」とよんだ方がよいと思います。ところで究竟ということは、つまり「究極」とか「終極」とか「最後」などという意味で、最終の最上なる涅槃《さとり》が、すなわち「究竟涅槃《くきょうねはん》」です。ところでこの「涅槃《ねはん》」ということですが、これは、世間でいろいろ誤解されているのです。しかし、このまえにもちょっと申し上げたごとく、それは仏教におけるさとり[#「さとり」に傍点]の世界をいったものです。すなわち涅槃の梵語は、ニイルバーナで、ものを「吹き消す」という意味です。で、普通にこれを翻訳して「寂滅」「円滅」「寂静」などといっていますが、要するに、私どもの迷いの心、「妄想」「煩悩」を吹き消した「大安楽の境地」をいうのです。「寂滅を以て楽となす」すなわち寂滅為楽《じゃくめついらく》などというといかにも静かに死んでゆくこと、すなわち「往生《おうじょう》する」ことのように思っている人もありますが、これは決して、死んでしまうという意味ではないのです。いったい世間で「往生する」ということを、死ぬことと混同して考えていますが、往生は決して死ぬことではない[#「往生は決して死ぬことではない」は太字]のです。古聖は、
「往生とは往《ゆ》き生まれることだ。仏法は死ぬことを教えるのじゃない。死なぬ法を教える[#「死なぬ法を教える」に傍点]のだ。浄土へ往き生まれることを、教えるのが仏法じゃ」
 といっていますが、ほんとうにその通りです。「往生」ということも、「涅槃に入る」ということも、決して死ぬのじゃなくて、永遠なる「不死の生命[#「不死の生命」は太字]」を得ることなのです。したがって、「往生」することが、成仏《じょうぶつ》すなわち仏[#「仏」に傍点]になることです。仏となることは、つまり無限の生命を得ることなのです。ある仏教信者のお老爺《じい》さんに、「あなたのお歳《とし》は?」と尋ねたところ、老人は「阿弥陀《あみだ》さまと同じ歳です」と答えたので、さらに「では、阿弥陀さまのお歳は?」と、問うたところ、老人は即座に「私とおなじ歳だ」といったという話がありますが、非常に面白いと思います。無限の生命(無量寿)、不死の生命をもった方が、阿弥陀さまです。だから阿弥陀さまと一つになれば、無限の生命を得たことになるのです。したがって、「立往生」とか、とうとう降参して「往生」したなどというのは、要するに、往生に対する認識不足といわねばなりません。ところで『心経』に書いてある「究竟涅槃」とは、どんな意味かというと、それは「|無住処涅槃[#「無住処涅槃」は太字]《むじゅうしょねはん》」という涅槃《さとり》です。「無住処」とは、住処すなわち住する処《ところ》なき涅槃という意味で、他の語でいえば「生死《まよい》に住せず、涅槃《さとり》に住せず」という意味がこの「究竟涅槃」です。
「菩薩は智慧を以ての故に、生死《しょうじ》に住《じゅう》せず、慈悲を以ての故に、涅槃《ねはん》に住せず」
 といっておりますが、これはたしかに味わうべき語です。
「勝《すぐ》れた智慧をもっている菩薩《ひと》は、乃《いま》し生死をつくすに至るまで、恆《つね》に衆生の利益《りやく》をなして、しかも涅槃に趣《おもむ》かず」
 と『理趣経《りしゅきょう》』というお経に書かれていますが、それが菩薩の念願《ねがい》です。なるほど仏教の理想は、さとりの世界へ行くことです。仏となり、浄土へ生まれ、極楽へ行くことが目的でしょう。しかし自分|独《ひと》りだけが仏になり、わが身独りが、極楽へ行けば、万事OKだ、というのでは断じてありません。人も我れも、我れも人も、いっしょに浄土へ行こうというのが、真の目的なのです。いや、たといわが身は行かずとも、せめて人を仏としたい、浄土へ送りたいというのが、菩薩のほんとうの|念願[#「菩薩のほんとうの|念願」は太字]《ねがい》です。理想です。

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愚かなる我は仏にならずとも衆生《しゅじょう》を渡す僧の身たらん
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 と、古人もいっておりますが、たとい、自分は仏にならずとも、せめて一切の人々を、のこらず彼岸《さとり》の世界へ渡したいというのが、大乗菩薩の理想です。だから極楽に生まれ、浄土へ行っても、自分独りが蓮華《はす》の台《うてな》に安座《あんざ》して、迦陵頻伽《かりょうびんが》の妙《たえ》なる声をききつつ、百|味《み》の飲食《おんじき》に舌鼓を打って遊んでいるのでは決してありません。菊池寛氏の『極楽[#「極楽」は太字]』という小説[#「という小説」は太字]の中にこんな話があります。あるお婆《ばあ》さんが、望み通りに極楽へ往生した。はじめのうちこそ、悦《よろこ》んでおったものの、しまいには、いささか退屈を感じ出したのです。そして苦しい娑婆《しゃば》(忍土)の方が、かえって恋しくなったというようなことを、巧みな筆で面白く書いていましたが、それはつまり多くの人たちが、顛倒《てんどう》夢想している極楽の観念を、諷刺《ふうし》したものです。真の極楽はそんなものでない事を暗にいったものです。親鸞上人《しんらんしょうにん》は「煩悩《ぼんのう》の林に遊《いで》て神通を現ずる」(遊煩悩林現神通《ゆうぼんのうりんげんじんつう》)といっておられます。「煩悩の林」とは、苦しみに満ちているこの迷いの世界です。で、つまり極楽へ往生して仏になることは、呑気《のんき》に気楽に浄土で暮らす
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