、人となれ人、人となせ人」で、人間は多いが、しかしほんとうに目醒めた人はきわめて少ないのです。全く人ぞなきです。その昔、ソクラテスがアテネの町の十字街頭に立って、まっ昼間、ランプをつけて、何かしきりに探《さが》しものをしていました。傍《そば》を通った門人が、
「先生、何を探しているんですか。何か落としものでも?」
 と、尋ねたのです。ソクラテスは門人にいいました。
「人[#「人」に傍点]をさがして[#「人[#「人」に傍点]をさがして」は太字]いるのじゃ」
「人って、そこらあたりをたくさん通っているじゃアありませんか」
 と再《かさ》ねて訊《たず》ねますと、哲人は平然と、
「ありゃ皆人じゃない」
 といい放ったという話ですが、真偽はともかく、ソクラテスとしてはありそうな話です。ほんとうに「人多き人の中にも人ぞなき」です。だから私どもはその求められる人に自らならねばならぬと同時に、また他人を人にせねばならぬのです。教育の理想は「人を作ることだ」と聞いていますが、仏教の目的も、やはり人を作ることです。しかし、仏教でいう人は、決して立身出世を目的としているような人ではないのです。俸給《ほうきゅう》を多くとり、賃銀をたくさんとるような、いわゆる甲斐性《かいしょう》のある、偉い人を作るのが目的ではないのです。自ら勇敢に、ほんとうの人間の道を歩むとともに、他人をもまたその道を、歩ませたいとの熱情に燃える人です。いわゆる「人となれ[#「なれ」に傍点]人」「人となせ[#「なせ」に傍点]人」です。だからそれは大乗的です。自分一人だけ行くのではない。「いっしょに行こうじゃないか」と、手をとり合って行くのですから、小乗の立場とは、たいへんその趣を異にしています。したがって、菩薩とは、心の大きい人です。度量の大きい人です。小さい利己的立場を止揚して、つねに大きい社会を省みて社会人として活動する人こそ、ほんとうの菩薩です。「衆生の疾《やま》いは、煩悩《まよい》より生じ、菩薩の|疾[#「菩薩の|疾」は太字]《やま》い[#「い」は太字]は、大悲より発《おこ》る」と『維摩経《ゆいまぎょう》』に書いてありますが、そうした「大悲の疾い」をもっているのが、とりも直さず菩薩です。利己的な煩悩《ぼんのう》の疾いと、利他的な大悲の疾い、そこにある人間[#「ある人間」に傍点]と、あるべき人間[#「あるべき人間」に傍点]との相違があります。つまり凡夫《ぼんぷ》と菩薩との区別があるわけです。このごろやかましくいわれるデモクラシイ(民主主義)も、こうした人間的自覚をもった人が、出てこないかぎりとうてい確立することはできません。あの十字架にかかったキリスト[#「あの十字架にかかったキリスト」は太字]、一切の人々の罪を償《つぐな》うために、すべての人々の救済《すくい》のために、十字架にかかったとすれば、そのキリストのこころこそ、まさしく菩薩のこころです。十字架を背負うた彼が、その十字架を背負わせた、その人たちの罪の救いを、かえって神に祈っている心もちは、まことに尊くありがたいものです。
 聖書《バイブル》にこういう文句《ことば》があります。「一粒の麦、地におちて死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を生ずべし」と。キリストは十字架にかかりました。しかしそれによって多くの人々は救われたのであります。キリスト教の是非はともかく、私たちは異教徒という名のもとにいたずらにこれを看過したり、排撃したりすることはできないのです。宗教人の名において[#「宗教人の名において」に傍点]、菩薩の名において、彼を賞讃《しょうさん》し、景仰すべきであると思います。
 菩薩の生活と四摂法[#「菩薩の生活と四摂法」は太字] ところで、仏教ではこの菩薩の生活、すなわちほんとうの人間生活の理想を、四つのカテゴリー(形式)によって示しています。四|摂法《しょうほう》というのがそれです。「摂」とは摂受《しょうじゅ》の意味で、つまり和光|同塵《どうじん》、光を和《やわ》らげて塵《ちり》に同ずること、すなわち一切の人たちを摂《おさ》めとって、菩薩の大道に入らしめる、善巧《たくみ》な四つの方便《てだて》が四摂法です。四つの方便とは、布施《ふせ》と愛語と利行《りぎょう》と同事ということです。布施[#「布施」に傍点]とは、ほどこしで、一切の功徳《くどく》を惜しみなく与えて、他人を救うことです。愛語[#「愛語」に傍点]とは、慈愛のこもった言語《ことば》をもって、他人によびかけることです。利行[#「利行」に傍点]とは、善巧な方便《てだて》をめぐらして、他人の生命を培《つちか》う行為《おこない》です。同事[#「同事」に傍点]とは他人の願い求める仕事を理解して、それを扶《たす》け誘導することです。禍福を分かち、苦楽を共にするというのがそれです。しかし、お経にはかように菩薩の道として四つの方法が説かれていますが、その四つの方法の根本は結局、慈悲の心です。貪《むさぼ》り求めるこころ、すなわち貪慾《どんよく》の心を離れた慈悲のこころをほかにして、どこにも「菩薩の道」はないのです。
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あわれみをものに施すこころよりほかに仏の姿やはある
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 で、あわれみを施す慈悲の心こそ菩薩のこころです。いや、それがそのまま仏陀《ほとけ》の心です。だから「菩薩の|行[#「菩薩の|行」は太字]《ぎょう》」として、仏教には六度、すなわち六|波羅蜜《はらみ》ということが説かれてありますが、その六波羅蜜の最初の行は布施[#「布施」に傍点]です。この布施の行為が母胎となって、他の五つの勝行《しょうぎょう》が生まれるのです。ところで、波羅蜜[#「波羅蜜」に傍点]とは、般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》のその波羅蜜で、すでに述べたごとく、それは「彼岸に到《いた》る」ということです。この岸から彼《か》の岸へ渡るのに、六つの行があるというのが、この六波羅蜜、すなわち六度です。布施と持戒と|忍辱[#「布施と持戒と|忍辱」は太字]《にんにく》と|精進[#「精進」は太字]《しょうじん》と|禅定[#「禅定」は太字]《ぜんじょう》と|智慧[#「智慧」は太字]《ちえ》がそれです。布施[#「布施」に傍点]とは、ただ今も申し上げたごとく、貪慾《どんよく》のこころをうち破って、他に憐《あわれ》みを施すことです。持戒とは、規則正しい生活の意味で、道徳的な行為《おこない》です。忍辱《にんにく》とは、堪《こら》え忍ぶで、忍耐です。精進《しょうじん》とは、努め励むことで、全生命をうちこんで努力することです。禅定とは、沈着です。心の落ちつきです。「明鏡止水」という境地です。智慧とは、これまでたびたび申し上げている般若《はんにゃ》の智慧です。ものごとをありのままにハッキリ認識することです。だから、所詮、菩薩の行は、この六度の行を離れて他にはないわけです。
 布施と智慧との関係[#「布施と智慧との関係」は太字] ところで、ここで一言申しておきたいことは、最初に私は般若の智慧こそ、彼岸へ渡る唯一の道だといっておきましたが、ここではまた、布施が六度の母胎である、布施こそ六波羅蜜の根本であると申しました。では、いったいどちらが真実なのかと疑いをもたれる方があるかも知れません。まことにごもっともなことです。しかしそれはどちらもほんとうです。というのは、前からしばしば申しましたごとく、仏教における智慧と慈悲とは、一つのもののうらおもて[#「うらおもて」に傍点]で、二にして一です。一つのものに対する二つの見方です。ところで、この布施というのはつまり慈悲のことです。ほんとうの慈悲、すなわち布施は、智慧の眼が開いていないものにはできません。大悲は、盲目的な愛でないかぎり、必ず、正しい批判と、厳《おごそ》かな判断と、誤りなき認識、すなわち智慧によらねばなりません。六度の根本、すなわち彼岸へ渡る根本の方法が、布施であり、般若であるといったのは、まさしくそれです。柔和なあの観音さまのお姿、忍辱《にんにく》の衣を身にまとえるあの地蔵さまのお姿を拝むにつけても、それがほんとう[#「ほんとう」に傍点]の自分《おのれ》の相《すがた》であることに気づかねばなりません。私たちのほんとうの心の姿こそ、あの絵像や、木像に象徴されている菩薩の尊容《おすがた》なのです。
 和顔愛語ということ[#「和顔愛語ということ」は太字] 今は故人になっていますが、私のかつて教えた学生の一人に、阿部という男がありました。性質は悪いというのではありませんが、いつも人と話す時には、目をいからし[#「目をいからし」に傍点]、口をとがらせて[#「口をとがらせて」に傍点]、ものをいう癖がありました。学生の演説会の時なんか、側《そば》で見ていると、まるで喧嘩《けんか》でもしているような態度です。私はいつもその男に「和顔愛語《わげんあいご》」という、菩薩の態度を話したことです。和顔とは、やさしい和《なごや》かな顔つきです。怒っているような、いかめしい顔つきではなくて、いかにも春風|駘蕩《たいとう》といったような顔つきです。朗らかな、やさしい顔つきといったらよいでしょう。私たちはお互いに些細《ささい》なことに口をとがらし、目をいからす必要はないのです。おだやかに話をすればわかるのです。他人が自分を悪くいうその態度が気にいらぬとて、すぐに感情を害して顔にあらわす、果たしてそれでよいものでしょうか。まことに「わがよきに人の悪《あ》しきのあらばこそ」です。「人の悪しきはわがあしきなり」です。他人を怨《うら》むまえに、まずわが身を省みる必要はないでしょうか。「他人を咎《とが》めんとする心を咎めよ」と清沢満之はいっています。そうした宗教的反省[#「宗教的反省」に傍点]こそ、私どもにいちばん大切な心構えだと思います。次に愛語とは、情のこもった、慈愛に充《み》ちた言葉づかいです。荒々しい棘《とげ》のある言葉づかいでは、相手の反感をそそるだけです。全く、丸い玉子も切りようで四角[#「丸い玉子も切りようで四角」は太字]にも三角にもなるごとく、ものもいいようで角《かど》がたつのです。あえて外交的辞令を用いよとは申しませぬが、お互いに言葉づかいに気をつけねばなりません。言葉の使いようで、成り立つことも成り立たぬ場合が往々あるのですから、もちろん、顔つきや、言葉づかいは、人格の自然の発露で、肝腎《かんじん》の人格の修養を度外視して、それだけを注意すればよいというのではありません。しかしとにかく和顔《わげん》と愛語の二つは、我人《われひと》ともに十分に、心懸《こころが》けねばならないと存じます。とくに婦人の方には、この点を十分に反省してほしいと思います。どれだけ顔が綺麗《きれい》でも、この二つのものが欠けていたらゼロです。無愛想だとか、無愛嬌《ぶあいきょう》だとか、いやな女[#「いやな女」に傍点]だ、などといわれるのは、多くそこから起こるのです。「ぶらずに、らしゅうせよ」と古人もいっていますが、女らしさ[#「女らしさ」に傍点]はここにあるのです。ところでここで一言申し上げておきたいことは、「和」ということです。「和を|以[#「和を|以」は太字]《もっ》て|貴[#「て|貴」は太字]《たっと》しとなす[#「しとなす」は太字]」(以[#レ]和為[#レ]貴)と、聖徳太子も、すでにかの有名な十七条の憲法の最初に述べられているごとく、何事によらず「和」が第一です。個人と個人の間でも、ないし社会、国家においても、この「和」ほど貴いものはないのです。和とは「平和」「調和」です。敗戦後の日本には、どこを探してもこの和がありません。今日こそ全く失調時代です。したがって私どもはなんとしても一日も早く和をとり戻《もど》さなくてはなりません。まことに「天の時は地の利に如《し》かず、地の利は人の和に如かず」で、和の欠けた国家が隆昌《りゅうしょう》し、発展したためしはありません。私どもは和衷協同の精神をもって、互いに愛しあい、労《いた》わりあい、助け合って、すみやか
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