ですが、しかしそこにはチャンと一つの深い「自覚」をもっているのです。自覚なきがごとくにして、しかも自覚している。この眉毛の態度こそ、まさしくそれは、因縁に随順しつつ[#「因縁に随順しつつ」に傍点]、無我に生きる生活です[#「無我に生きる生活です」は太字]。そこには万人の味わうべき何ものかがあると存じます。「一|隅《ぐう》を照らすものを国宝となす」と伝教大師はいっていますが、この国宝こそ、今日最も要求されているのです。
「聡明叡智《そうめいえいち》、之《これ》を守るに愚を以てす」
と古人もいっております。成功の|秘訣[#「成功の|秘訣」は太字]《ひけつ》は、「運」、「鈍」、「根」の三つだと、いわれていますが、この「鈍」、この「愚」が、現代人には特に必要かと思います。「大賢は大愚に近し」ともいいます。眼から鼻へぬける鋭さ、賢さも、もちろん必要でしょう。だが、そこにはぜひとも「愚」がほしいのです、「鈍」が必要です。もしもこれが欠けていると、小ざかしい口達者な小利口ものになるわけです。有名な電気王エジソンはいっています。「天才とは九分九厘が汗《パースピレーション》、一分だけが霊感《インスピレーション》」と。たしかにそうでしょう。全く「天才とは長い辛抱[#「天才とは長い辛抱」は太字]」です。根気が必要です。辛抱が天才を作り上げるのです。だが、辛抱の一面また鈍が大事です。鈍とは愚です。「聡明叡智、之を守るに愚をもってせよ」と古人が誡《いまし》めているのはそこです。あのエスペラントの初祖ザメンホフはいっております。
「新思想の開拓者[#「新思想の開拓者」は太字]が、遭遇《そうぐう》するのは、嘲笑《ちょうしょう》と非難のほかの何物でもない。はじめて逢《あ》ったきわめて教養の低い腕白小僧すら、彼らを見下していうのである。『彼らは愚かしいことに従事している』と」
この覚悟が必要です。いかなる嘲笑も慢罵《まんば》も攻撃をも、一切超越せねば、決して新しい仕事はできないのです。新奇な運動は発《おこ》せないのです。つまり馬鹿になる、愚者にならねば、とうてい所期の目的を達成することはできないのです。
いったい人の世に処する道はむずかしいものです。とかく社会生活がだんだんと複雑になると、「経済の問題」がやかましくなってきます。「|生活[#「生活」は太字]《くらし》」ということ[#「ということ」は太字]、食物の問題、胃袋の問題が、きわめて重要な意味をもってきます。まことに無理もありません。だから今日では個人的にも、社会的にも、国際的にも、すべては、「損得」、「利害」といったような、打算的な考えで、動いているようです。一文でも「損」をせぬように、一文でも「得」をするように、損にも得にもならぬものには、なるべく手を出さぬように、関係しないように、というふうです。それが現代的なものの考え方のようです。だが、それで果たしてよいものでしょうか。「引き合わぬ」「勘定にあわぬ」というような損得の考え[#「損得の考え」は太字]だけで、人間は暮らせるものでしょうか。中国人は金《かね》に汚《きたな》いというが、日本人は汚くないでしょうか。経済の問題、もちろん必要です。この地上に、人間の生活が営まれるかぎり、私どもは、とうてい「経済」上の利害得失と無関心にはおられません。しかしです。経済が、決して生活の全部とは申されません。経済だけで、ほんとうに経済だけで、世の中のすべてが生きているのではありません。なるほど「人間は食う動物なり[#「人間は食う動物なり」は太字]」ということは事実でしょう。しかし食うだけで、人間は決して満足しているものではありません。食糧飢餓の今日、人はあまりに食生活のために貴い人間の霊性を見失っているような気がいたします。敗戦後の日本人は、ひたすら食物を探《さが》し求める犬や猫《ねこ》のような存在になったようです。しかし、新しい日本を建設し、創造するには、お互いはとくと考え直さねばなりません。それは物質上の破産を、いかにもそれが人間の破産のごとく考えて、心の破産の重大なることに気づかないということです。「物の貧困[#「物の貧困」は太字]」よりも恐ろしいのは「心の貧困[#「心の貧困」は太字]」です。「本来は無一物なり雪だるま」たとい戦災で物を喪失しても、もともと裸で生まれてきたのですもの。将棋の「金」から「歩《ふ》」に帰っただけのことです。歩は当然また金になれるのです。
恐ろしいのは心の喪失です。心の貧困です。いったん心を失ったものは、たやすくとり戻《もど》すことはできないのです。私どもは外面的に、貧困防止の方法を考えねばならぬと同時に、いやそれ以上に内面的に、心の貧困を克服すべく努めねばなりません。「人間は食う動物だ」といった、かのフォイエルバッハは、また一面において、「人間は人間にとって神である」とさえいっております。何も彼《か》も、ことごとく「損得」の打算、すなわち「有所得」の心持で動かずに、時には打算を|超[#「打算を|超」は太字]《こ》えた[#「えた」は太字]「無所得」の心持になりたいものです。ほんとうの人間らしい心になりたいものです。そして単に利害とか損得ということだけでなく、正と不正、善と悪、といったような立場から、動きたいものです。われわれの日常の行動が、こういう基準によって行なわれなければ、断じて社会は円満に、円滑にはゆきません。つまりは道義に立脚する行為でなければ、ほんもの[#「ほんもの」に傍点]ではありません。この私の『心経』の講義をお聞きくださっても、おそらくそれは、金|儲《もう》けには、縁遠いことでしょう。直接には一銭の利益もないでしょう。一文の得もないでしょう。経済生活の上には、直接なんの関係もないでしょう。しかしです。「無用の用」こそ、真の用です。私どもはただ自然人としての自分のみを見ずして、文化人として、さらに宗教人[#「宗教人」に傍点]としての自分、いやほんとうの人間としての自分をかえりみなければなりません。かくてこそ、はじめて無所得[#「無所得」に傍点]の意味も、自然に理解されるのであります。
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第九講 恐怖《おそれ》なきもの
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菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51][#(ノ)]。
依[#(ルガ)][#二]般若波羅蜜多[#(ニ)][#一]故[#(ニ)]。
心[#(ニ)]無[#(シ)][#二]※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙[#一]。
無[#(キガ)][#二]※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙[#一]故[#(ニ)]。
無[#(シ)][#レ]有[#(ルコト)][#二]恐怖[#一]。
遠−[#二]離[#(シテ)]顛倒夢想[#(ヲ)][#一]。
究竟涅槃[#(ス)]。
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すでに私は、『心経』の無所得、すなわち所得なしということをお話ししておきましたが、この無所得の境地は、こういうふうにいい表わしたらよくわかるかと存じます。
こころの化粧[#「こころの化粧」は太字] かつて私は宅が狭いので、書斎が兼客間でした。応接間でお客と話すことが嫌《きら》いですから、どんな方が見えても、すぐ書斎へ通すのです。その時いちばん困ることは、何か調べものでもしている時には、書斎が書物でいっぱいになっているので、狼狽《あわて》てそこらを片づけてからお客に通っていただいたのです。ところが平生《ふだん》は、割合に片づいているので、いつ何時お客があっても、少しもあわてずにすむのです。ちょうど、そのように、平素心の中が、余計な、いらざる妄想《もうぞう》や、執着という垢《あか》でいっぱいになっていると、いざという場合に臨んで、うろたえ騒がなくてはなりません。御婦人方でもそうです。身だしなみ[#「身だしなみ」は太字]が、チャンとできていると、何時来客があっても、お客を待たせておいて、急いで衣物《きもの》を着かえたり、髪や顔の手入れをなさらずとも、余裕|綽々《しゃくしゃく》として、応接することができるのです。化粧の必要はそこにあるのです。白粉《おしろい》を塗ったり、香水でもつけなければ、化粧でないと思っている方もありましょうが、それは認識不足です。身だしなみをすることが化粧です。だが、髪や形の化粧をするときには、いつも心の化粧をしてほしいものです。心をチャンと掃除して、塵《ちり》や垢《あか》のないようにしておきたいものです。けだし「無所得」の境地というのは、心を綺麗《きれい》さっぱりと片づけておくことです。化粧しておくことです。整頓《せいとん》している座敷、それが無所得の世界だと思えばよいでしょう。なんのこだわりもない純真|無垢《むく》な心の状態が、つまり無所得の世界です。しかも無所得にしてはじめて一切を入れる、大きい所得があるわけです。
虚往実帰[#「虚往実帰」は太字] 古人は、「虚《きょ》にして往《ゆ》いて、実にして帰る」すなわち虚往実帰《きょおうじっき》ということをいっていますが、他家へ御馳走《ごちそう》になりに行く場合でも、お腹《なか》がいっぱいだと、たとい、どんなおいしい御馳走をいただいても、少しもおいしくありません。だが、お腹を空《す》かして行けば、すなわち虚《きょ》にして往けば、どんなにまずく[#「まずく」に傍点]とも、おいしくいただいて帰れるのです。空腹には決してまずいものはないのです。無所得にしてはじめて所得があるのです[#「無所得にしてはじめて所得があるのです」に傍点]。無所得こそ、真の最も大きい所得、いや無所得にして、はじめて大なる所得があるのです。利益があるのです。無功徳《むくどく》の功徳こそ、真の功徳です。さてこれまで、お話ししてきた『心経』の本文は、皆、私どものお腹をからっぽにするためだったのです。「一切は空《くう》だ」何もかも皆、ないのだ、といって私どもの頭の中を、腹の中を掃除してくれたのです。もう私どもの頭の中はからっぽです。お腹はスッカリ綺麗に掃除ができているのです。「有ると見て、なきは常なり水の月」で、因縁によってできているものは、皆ことごとく水上の月だ。あるように見えて、実はないのじゃといって、今までは一切を否定[#「一切を否定」に傍点]してきたのです。いわゆる「無所得の世界」まで、私どもお互いを、引っぱってきたのです。で、これからいよいよお話しする所は、空腹の前の御馳走です。したがって、これからはどしどし御馳走が、一々滋味と化して私どもの血となり肉となってゆくのです。「菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]《ぼだいさった》の般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》に依るが故に、心に※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙《けいげ》なし」というのはそれです。さてここで一応ぜひお話ししておきたいことは、「菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]すなわち「菩薩[#「菩薩」は太字]」ということ[#「ということ」は太字]です。いったい大乗仏教[#「大乗仏教」に傍点]というのは、この「菩薩の宗教」ですから、この菩薩の意味がよくわからないと、どうしても大乗[#「大乗」に傍点]ということも理解されないのです。ところで、菩薩のことを、この『心経』には菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51][#「菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]」に傍点]とありますが、これは菩薩の具名《くわしいなまえ》で、昔からこれを翻訳して、「覚有情《かくうじょう》」といっております。覚有情[#「覚有情」に傍点]とは覚《さと》れる人という意味で、人生に目醒《めざ》めた人のことです。ただし自分|独《ひと》りが目醒めているのではなく、他人をも目醒めさせんとする人です。だから、菩薩とは、自覚せんとする人であり[#「自覚せんとする人であり」に傍点]、自覚せしめんとする人です[#「自覚せしめんとする人です」に傍点]。「人多き人の中にも人ぞなき
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