わち彼岸とは、つまり仏陀《ぶっだ》の世界ですから、彼岸へ到達するとか、彼岸へわたるとかいうことは、結局、仏となるということです。ゆえに彼岸ということは、要するに、仏教の理想、目的をいい表わしたことになるのであります。よく私どもは「仏教とはどんな教えか」と質問されることがありますが、その時私は簡単に、「仏教とは仏陀の教えだが、その仏陀の教えとは、つまり人間が仏になる教えだ」と答えています。仏となる教え、成仏《じょうぶつ》の教え、それが仏教です。ところで、この此岸から彼岸へ渡る場合に自分|独《ひと》りで渡るか、それとも大勢の人々といっしょに渡るかということにおいて、自然ここに、「|小乗[#「小乗」は太字]《しょうじょう》」と「|大乗[#「大乗」は太字]《だいじょう》」との区別が生じてくるのです、小乗とは小さい乗り物[#「小さい乗り物」に傍点]、大乗とは大きい乗り物[#「大きい乗り物」に傍点]のことです。早い話が、自転車は一人しか乗れないが、汽車や汽船になると、何百人何千人がいっしょに乗って、目的地へ行く事ができるのです。小乗と大乗との関係も、ちょうどそれと同じことです。少なくとも仏教の根本目的は「我等と衆生《しゅじょう》と、皆共[#「皆共」に傍点]に仏道を成《じょう》ぜん」ということです。「同じく[#「同じく」に傍点]菩提《ぼだい》心を発《おこ》して、浄土へ往生せん」ということです。したがって小乗は単数、大乗は複数です。小乗は「私」ですが、大乗は「我等」です。小乗は自利、大乗は自利、利他です。自利とは自覚、利他とは覚他です。自覚は当然覚他にまで発展すべきです。覚他にまで発展しない自覚では、ほんとうの自覚ではありません。したがって小乗より大乗の方が、ほんとうの仏教であり、民主主義《デモクラシー》もつまりは大乗主義であるということはいうまでもありません。
 心経の二字について[#「心経の二字について」は太字] 次に『心経』ということでありますが、ここで「心」というのは、真髄とか、核心とか、中心とか、いったような意味で、つまり肝腎要《かんじんかなめ》ということです。ところで、いったいなんの核心であるか、なんの中心であるか、という事については、いろいろと学者の間にも議論がありますが、要するに、この『心経』は、あらゆる大乗仏教聖典の真髄であり[#「大乗仏教聖典の真髄であり」に傍点]、核心だ[#「核心だ」に傍点]というのです。したがって『般若心経』という、この簡単なる経典《おきょう》は、ただに『大般若経』一部六百巻の真髄、骨目であるのみならず、それは実に、仏教の数ある経典のうちでも、最も肝腎|要《かなめ》の重要なお経だということを表わしているのが、この「心経」という二字の意味です。
 経ということ[#「経ということ」は太字] それから、最後に「経」という字でありますが、元来この経とは、梵語のスートラという字を翻訳したもので、それは真理に契《かな》い、衆生《ひとびと》の機根《せいしつ》に契《かな》う、というところから、「契経《かいきょう》」などとも訳されていますが、要するに聖人の説いたものが経です。すなわち中国では昔から、聖人の説かれたものは、つねに変わらぬ[#「つねに変わらぬ」に傍点]という意味で、「詩経」とか、「書経」などといっているのですが、インドの聖人、すなわち仏陀《ほとけ》が説かれたもの、という意味から、翻訳の当時、多くの学者たちが、いろいろ考えたすえ、「経」と名づけたのであります。
 さとりへの道[#「さとりへの道」は太字] これを要するに、『心経』すなわち『般若波羅蜜多心経《はんにゃはらみたしんぎょう》』というお経は、「人生の目的地《ゴール》はどこにあるか」「いかにしてわれらは仏陀の世界へ到達すべきか」「仏陀の世界へ到達した心境は、いったいどんな状態にあるのか」ということを、きわめて簡単|明瞭《めいりょう》に、説かれたお経であります。こうした意味で、昔から、この『般若心経』をば『智度経《ちどきょう》』と訳されていますが、とにかく、この『心経』は決して抹香《まっこう》臭い、専門の坊さんだけがよむ、時代おくれのお経では断じてありません。ほんとうの真理とは、真理の智慧とは、どんなものであるかを、端的に教えてくれる、永遠に古くして、しかも新しい聖典が、この『心経』です。少なくとも真に人生に目覚《めざ》め、「いかに生くべきか」の道を考えるならば、何人もまず一度はどうしてもこの『心経』を手にする必要があります。ほんとうに、私どもの世の中に、こんなに簡単にして要を得た聖典は、断じて他にないと思います。私どもは『心経』を契機《きっかけ》として、人生とは何か[#「人生とは何か」に傍点]、われらは[#「われらは」に傍点]、いかに生くべき[#「いかに生くべき」に傍点]かの道を、皆さんといっしょにおもむろに味わってゆきたいと存じます。
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第二講 語るより歩む
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観自在菩薩。
行[#(ズル)][#二]深般若波
羅蜜多[#(ヲ)][#一]時。
照[#二]見[#(シテ)]五蘊皆空[#(ナリト)][#一]。
度[#(シタモウ)][#二]一切[#(ノ)]苦厄[#(ヲ)][#一]。
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 般若の哲学[#「般若の哲学」は太字] これから申し上げるところは、「観自在菩薩《かんじざいぼさつ》、深《じん》般若波羅蜜多を行《ぎょう》ずる時、五|蘊《うん》は皆空なりと照見《しょうけん》して、一切の苦厄《くやく》を度《ど》したもう」という一段であります。漢字の数からいえば、タッタ二十五字しかありませぬが、この二十五字が、『心経』全体の中心になっておるのでありまして、二百六十余字の『心経』は、結局、この最初の二十五字をば、あるいは縦に、あるいは横に、内から外から、いろいろな方面から、説明したものにほかならぬのであります。
 観音さまはどんな仏か[#「観音さまはどんな仏か」は太字] さてまず「観自在菩薩」と申しますのは、観世音《かんぜおん》すなわち観音さまのことです。観音さまは、自由自在に、世音すなわち世間の声、大衆の心の叫び、人間の心持を観察せられて、われわれの身の悶《もだ》え、心の悩みを、救い給う仏でありますから、梵語のアバローキティシュバラという原語を訳して、玄奘《げんじょう》三蔵は「観自在」といっているのであります。すなわち梵語の「アバローキタ」という字は観る[#「観る」に傍点]という意味、「イーシュバラ」は、自由または自在という意味です。いったい私どもが、ものをみる[#「みる」に傍点]という場合には、「見、観、視、察」という四つの見方があるときいています。ところで、その中で見という字は、肉眼でものをみること、観という字は、観音さまの観の字で、心眼でものをみることです。したがって観察[#「観察」に傍点]するということは「心の眼[#「心の眼」に傍点]でもってもの[#「もの」に傍点]をよくみる」ということでありまして、実はこの観察ということによって、私どもはもの[#「もの」に傍点]のほんとうの相を、ハッキリ知ることができるのです。その昔、宮本|武蔵《むさし》は『五|輪書《りんのしょ》』という本のなかで「見の眼と観の眼[#「見の眼と観の眼」は太字]」といっておりますが、武蔵によれば、この観の眼によってのみ、剣道の極意《ごくい》に達することができるのでありまして、彼は剣道において、観の眼、すなわち心の眼の修業が、いちばんたいせつだということを力説しております。しかし、それは単に剣道のみではありません。どの商売でも、どんな学問でも、何につけても、いちばんたいせつなのは、この「観の目」です。心の眼です。有名なカントが、「哲学する」といっているのも、つまりはこの観の目でみることです。スピノーザが「永遠の相において」ものをみよというのもそれをいったものです。私どもは平生、なんの気なしに、見てみる[#「みる」に傍点]とか、聞いてみる[#「みる」に傍点]、とかいうことばを使っておりますが、その見てみる[#「見てみる」に傍点]、聞いてみる[#「聞いてみる」に傍点]という、その「みる[#「みる」は太字]」というのは、つまり心眼のことです。心の眼でものをみることです。「心ここにあらざれば、見れども見えず、聞けども聞こえず」というのは、心の眼のないこと、心の耳をもたないことをいったのです。ですからこの心眼を開けばこそ、私どもは、形のない形が見えるのです。心耳をすませばこそ、声なき声が聞こえるのです。俳聖|芭蕉《ばしょう》のいわゆる
「見るところ花にあらずということなし、おもうところ句にあらざるなし」(吉野紀行)
 というのはまさしくこの心の眼を開いた世界です。心の耳をすまして聞いた世界です。つまり観察するという心持でもって、大自然に対した芸術の境地であります。ところで、いま観世音は実にこの心の眼を、大きく見開いて、一切を観察するとともに、また心の耳をすまして、一切の音声を聞かれた、いや、現に聞かれつつあるのです。そして慈愛のみ手を一切の人々のまえにさしのべられつつ[#「つつ」に傍点]あるのです。
 さてこの観世音菩薩が、「深般若波羅蜜多《じんはんにゃはらみた》を行《ぎょう》ずる時」というのは、どんな意味であるかというに、すでに申し上げておいたごとく、それは、観音さまが甚深微妙《じんしんみみょう》なる般若の宗教を実践せられたということで、観世音は、単に心の眼を見開いて、般若の哲学を認識せられたのみでなく、進んで般若の宗教をば親しく実践[#「実践」に傍点]されたのです。ところで、この「深」という文字ですが、この深という字については、昔からいろいろむずかしい解釈もありますが、要するに深は浅の反対で、深遠とか、深妙とかいう意味です。観音さまの体得せられた、般若の智慧《ちえ》の奥ふかいことを形容したことばだと考えればいいのです。したがってそれは私ども人間のもっているような、あさはかな智慧ではなく、もっともっと深遠な智慧、すなわち「一切は空なり」と照見した真理の智慧を指していったのです。それから、ここでお互いがよく注意しておかねばならぬ文字は、「般若波羅蜜多を行ずる[#「行ずる」に傍点]」という、この「|行[#「行」は太字]《ぎょう》」ということば[#「ということば」は太字]です。これがたいへん重要なる意味をもっているのです。あえてゲーテを待つまでもなく、いったい宗教の生命は「語るよりもむしろ歩むところにある」のです。いや宗教は、語るべきものではなくて、歩むべきものです。しかも、その歩むというのは、この「行」です。行ずるということが、歩む[#「歩む」に傍点]ことであり、実践する[#「実践する」に傍点]ことなのです。いったい西洋の学問の目的は知るということが主眼ですが、東洋の学問の理想は行なうことが重点です。すなわち知るは行なうのはじめで、知ることは行なわんがためです。しかも行なってみてはじめて、ほんとうの智慧ともなるのです。有名な『中庸』という本に「博《ひろ》く之を学び、審《つまびら》かに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を辨じ、篤《あつ》く之を行う[#「行う」に傍点]」という文句《ことば》がありますが、けだしこれはよく学問そのものの目的、理想を表わしていると思います。ところで観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずるということは、つまり般若の智慧を完成されたということですが、それは要するに六度の行を実践されたことにほかならぬのです。六度とは六|波羅蜜《はらみつ》のことで、布施《ふせ》(ほどこし)と持戒《じかい》(いましめ)と忍辱《にんにく》(しのび)と精進《しょうじん》(はげみ)と禅定《ぜんじょう》(おちつき)と般若《はんにゃ》(ちえ)でありますが、まえの五つは正しい実践であり、般若は正しい認識であります。
 智目と行足[#「智目と行足」は太字] 古来、八宗の祖師といわれるかの有名な竜樹《り
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