ます。こんな例は、仏教の専門語にはたくさんありますが、いったい一口に智慧といっても、その智慧には、いろいろな智慧があります。「智慧のある馬鹿に親爺《おやじ》は困りはて」という川柳がありますが、あの智慧のある馬鹿|息子《むすこ》がもっているような、そんな智慧は決して、般若の智慧ではありません。元来、仏教ではわれわれ凡夫の智慧をば仏の智慧と区別して、単に識《しき》といっております。
 愚痴と智慧[#「愚痴と智慧」は太字] その識とはつまり迷いの智慧のことです。愚痴という智慧が、この識です。愚痴の痴は※[#「やまいだれ」、第3水準1−88−44]《やまいだれ》に知という字ですから、つまり智慧が病気にかかっているわけです。したがって、それはもちろんほんとうの智慧ではありませぬ。いったいもの[#「もの」に傍点]の道理を、真に辨《わきま》えないから、いろんな悶《もだ》え、悩み、すなわち煩悩《ぼんのう》が出てくるのですが、愚痴は、つまりものの道理をハッキリ知らないから起こるのです。で、人間が仏陀になることを、識を転じて智を得る[#「識を転じて智を得る」に傍点]といっておりますが、それは結局、迷いを転じて悟りを開くということと同じ意味で、要するにわれわれ迷いの人間が、悟れる仏陀《ほとけ》になるということです。ところで、ここにいう般若の智慧とは、決して愚痴といわれ、識といわれる、人間のもっているあさはかな智慧ではないのです。それは知らざるもの[#「知らざるもの」に傍点]、眠れるもの[#「眠れるもの」に傍点]、迷える人間の智慧ではなくて[#「迷える人間の智慧ではなくて」に傍点]、知れるもの[#「知れるもの」に傍点]、目覚めたるもの[#「目覚めたるもの」に傍点]、悟れる人[#「悟れる人」に傍点]の智慧です。それは宇宙の真理を体得した、仏陀(覚者)のもてる智慧です。真理の智慧、真理を悟った智慧、それがとりも直さず般若の智慧[#「般若の智慧」に傍点]であります。
 ものの道理[#「ものの道理」は太字] さてここで、一言申し添えておきたいことは、真理[#「真理」に傍点]ということです。真理とはなんぞや? ということを、開き直って研究するとなると、たいへんめんどうな、むずかしいことになりますし、またそれを学問的に説明している余裕《ゆとり》もありませぬが、一言にして真理とは何かといえば、それはつまり、いつ[#「いつ」に傍点]、どこでも[#「どこでも」に傍点]、何人も[#「何人も」に傍点]、きっと[#「きっと」に傍点]、そう考えねばならぬもの[#「そう考えねばならぬもの」に傍点]、それが真理です。
 むずかしくいえば、普遍妥当性《ふへんだとうせい》と思惟《しい》必然性とをもったものが真理です。時の古今、洋の東西を問わず、いつの世、いずれの処《ところ》にも適応するもの、誰《だれ》しもそうだと認めねばならぬものが真理です。古今に通じて謬《あやま》らず、中外に施して悖《もと》らざる、ものの道理、それが、とりも直さず真理です。西洋の諺《ことわざ》に、「真理は時代の娘[#「真理は時代の娘」は太字]」という言葉がありますが、真理こそ、永遠の若さをもったものです。真理はまさしくいつの時代にも若鮎《わかあゆ》のように溌剌《はつらつ》とした若々しい綺麗《きれい》な娘です。創造し、活動して、止《や》まぬもの、それが真理です。けだし、永遠に古くして、かつ永遠に新しいもの、それが真理です。いや、永遠に古いものにして、はじめて永遠に新しいものだ、ということができるのです。真理といえば、真理についてこんな話があります。それはたしか、シルレルの書いたものだと思いますが、「蔽《おお》われたザイスの像」という話です。
 真理への思慕[#「真理への思慕」は太字] その昔、知識に餓《う》えた一人の青年がありました。彼は真理の智慧を求むべく、エジプトのザイスという所へ行きました。そしてそこで、彼は、一所懸命に真理の智慧を探《さが》し求めたのでした。しかし、求める真理の智慧は容易に索《もと》め得られませんでした。ところが、ある日のこと、彼は師匠と二人で、静かな、ある秘密の部屋の中に坐《すわ》ったのでした。そこは白い紗《しゃ》に蔽われた、一個の巨像が、森厳《しんごん》そのもののように立っていたのです。その時、青年は突然、師匠に対《むか》って、この巨像が何者であるかを尋ねました。
「真理!」
 それが師匠の答えでした。これを聞いた青年は、おどろき、かつ喜びました。そして、思わず、
「つね日ごろ、自分が尋ね索めている真理は、ここに隠されていたのか」
 と叫びました。
 その時、師匠は厳《おごそ》かに青年にいいました。
「神自らが、この蔽いを、脱《ぬ》がせ給うまでは、決して、人間の浄《きよ》からぬ罪の手で、取り去ってはならぬ」
 と。しかし、思いに悩んだ、その青年は、諦《あきら》めても、あきらめても、容易にそれを、あきらめきれなかったのです。
 その夜、深更、ひそかに、彼はかの巨像が立てられてある部屋《へや》の中へ忍びこんで行きました。そこには、円《まる》天井の高い窓から、蒼白《あおじろ》い月の光がさして、白い紗に蔽われた森厳な巨像は、銀色に照らされていました。
 幾度も、幾度も、ほんとうにいくたびも、ためらった後、とうとう彼は意を決して、その蔽いを、とり去ってみたのです。
 みたものは、果たしてなんであったでしょうか? 翌朝《あくるあさ》、人々は白い紗に蔽われた巨像の下に、色青ざめて横たわる一人の青年の、冷たい屍《しかばね》を見出しました。かの青年がみたもの、かの若者が経験したもの、彼の舌は、永遠にそれを語らなかった。
「正しからざる方法によって、真理を捉《とら》えんとしても、それは結局、無駄《むだ》な骨折りに過ぎない」
 と、最後に詩人は教えています。
 けだし世に、真理を尋ね求める人はきわめて多い。しかし、それを探し求め得た人は、またきわめて少ないのです。私どもは、決してかの青年であってはならないのです。正しからざる方法によって、ザイスの巨像を見んとした、あの若者であってはならないのです。私どもは、どこまでも、真理への道を辿《たど》る、敬虔《けいけん》な求道者でなくてはなりません。しかも、真面目《まじめ》に、真理を思慕し、探究するものによってのみ、真理ははじめて把握《はあく》し得られるのです。
 道理と智慧[#「道理と智慧」は太字] 話がつい横道へ外《そ》れましたが、般若の智慧を、仏教では、実相と観照との二つの方面から説明しております。実相とは真理の客体で、観照とは真理の主体です。何人も認めねばならぬ、ものの道理と、それに合致する智慧が、つまりこの実相と観照との二種の般若です。そして、その般若の道理と智慧とを、文字によって示したものが、すなわち文字般若《もじはんにゃ》です。いずれにしても、これからお話し申し上げようとする『心経』は、要するに永遠に古くしてしかも永遠に新しい般若の真理を、雄弁に且つ力強く主張しているお経なのです。いつ、どこでも、何人も、必ずそう信ぜねばならぬ、不朽の真理を、きわめて直截《ちょくせつ》簡明に説いているのが、この『心経』です。般若の哲学[#「般若の哲学」に傍点]、それは決して古いインドの哲学ではありません。般若の宗教[#「般若の宗教」に傍点]、それは断じて、亡《ほろ》びた過去の宗教ではないのです。昔も今も、今日も明日も、いや未来|永劫《えいごう》に光り輝く、人生の一大燈明なのであります。
 つまらぬものは一つもない[#「つまらぬものは一つもない」は太字] ところで、いまこの般若の智慧によって、この現実のわれわれの世界を眺《なが》めまするならば、事々物々、一つとして役に立たぬつまらぬものはないのです。あの「つまらぬというは小さき智慧袋」という一句が、きわめて巧みに物語っているように、真理への眼が開けたものにとっては、この世界につまらぬものは一つとして存在していないのです。「医王の眼には百草みな薬」です。つまらぬというのは、ものがつまらぬとか、話がつまらぬというのではなくて、つまり、おのれの智慧袋が小さいからなのです。一たび般若という、大きい智慧によって観照するならば、つまらぬどころか、いずれもみな貴い真理の表われです。ロングフェローの「建築師」という詩の中にこんな言葉があります。

[#ここから2字下げ]
世の中に、無用のものや、卑しいものは、一つもない。
すべてのものは、適所におかれたならば、最上のものとなり、
ほとんど無用のごとく見えるものでも、
他のものに力を与えるとともに、その支《ささ》えともなる。
私たちの建築に供給するために、時の中には、材料がいっぱいになっている。
私たちのもつ今日や明日は、
私たちの建築の有力な材料である。
[#ここで字下げ終わり]

 と。たしかに味わうべき言葉だと思います。
 平凡な一日と貴重な一日[#「平凡な一日と貴重な一日」は太字] 今日や明日という日は、それこそなんでもない平凡な一日[#「平凡な一日」に傍点]です。しかし、その平凡な一日[#「平凡な一日」に傍点]が集まって、私どもの人生を作っているのです。したがって、つまらぬどころか、後《あと》にも先にもない貴い一日[#「貴い一日」に傍点]です。昨日を背負い、明日を孕《はら》める、尊い永遠の一日です。結局、一日をつまらぬ一日にするか、貴い一日にするか、それはつまり私どもお互いの心持です。心のもち方です。ものそのもの[#「ものそのもの」に傍点]が、つまらぬのではなくて、それを見る、それを受けとる智慧袋が小さいわけです。この『心経』に織りこまれている、般若の智慧によるならば、世の中のもの、皆すべてつまらぬものはないのです。いやすべては互いに裏となり表となり、陰《かげ》となり、陽《ひなた》となって生かし、生かされつつある貴い存在《もの》なのです。まことに、「つまらぬというは小さき智慧袋」です。私どもは、少なくとも私どもがお互いに誰でもが持っている霊性、すなわちこの般若の智慧を磨《みが》くことによって、一切のものの生命《いのち》を、より尊く、よりりっぱに活《い》かしてゆかねばうそだと思います。
 波羅蜜多ということ[#「波羅蜜多ということ」は太字] 次に波羅蜜多《はらみた》ということは、般若と同様に、梵語の音そのままを写したものでありまして、原語はパーラミターというのです。ところで、いまそれを翻訳いたしますと、彼岸に到《いた》る、すなわち「到彼岸」という意味になるのです。しかし今日一口に彼岸というと、誰でもすぐにあの「暑さ寒さも彼岸まで」という春秋二季の彼岸を思い起こすのです。一年じゅうで一ばんよい時候、春と秋との皇霊祭(春分の日・秋分の日)を彼岸の中日として、その前後三日の間、合わせて七日間を彼岸と名づけておりますが、世間では、時候のよい、暮らしよい時が彼岸だと考えています。しかし彼岸の七日間は時候がよいというので、遊びまわったり、物見遊山に出かけるときではないのです。お寺参りをするとか、お墓まいりをするとか、つまり祖先のおまつりをして祖先の御恩を偲《しの》んで、それを感謝するとともに、自分の生活を静かに反省して修養すべき時が彼岸です。「きょう彼岸さとりの種を蒔《ま》く日かな」で、菩提《さとり》のたねをまく日が彼岸です。いったい、仏教では、この現実の世界、すなわち迷える私たちの不自由な世界をば、この岸、すなわち「此岸《しがん》」といいます。これに対して、理想の世界、悟れる自由な世界を称して、かの岸、すなわち「|彼岸[#「彼岸」は太字]《ひがん》」といっています。ゆえに波羅蜜多とは、つまり、此岸より彼岸へ渡る事[#「此岸より彼岸へ渡る事」に傍点]、つまり人生の目的地《ゴール》へ入ること、ゴール・インすることです。したがって、古来、簡単にこれを「度《ど》」とも訳しております。度とは「わたる」ということで、この岸から向こうの岸へ渡ることです。ところで、仏教の理想《さとり》の世界、すな
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