住むこの世界は、あたかもさかんに燃えている火宅である、という釈尊のこの体験こそ、尊い人間苦への警告だったのです。苦諦の真理に対する目覚めだったのです。かくてこそ、
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如来《ほとけ》はすでに三界の火宅を離れて
寂然《じゃくねん》として閑居《げんご》し、林野に安処せり
今この三界は、皆是れ我|有《もの》なり
その中の衆生は、悉《ことごと》く是れわが子なり
しかもいま此処《ここ》は、諸《もろもろ》の患難《うれい》多し
唯《た》だ我一人のみ、能《よ》く救護《くご》をなす
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という、われらに対する、仏陀《ぶっだ》の限りなき慈悲の手は、さし伸べられたのではありませんか。
人生への第一歩[#「人生への第一歩」は太字] まことに「人生は苦なり」という、その苦の真理に目覚めることこそ、宗教への第一歩ではないでしょうか。しかし、所詮《しょせん》、第一歩はあくまで第一歩です[#「第一歩はあくまで第一歩です」に傍点]。それは決して宗教の結論ではないからです。宗教の全部ではないからです。いや、それは宗教への第一歩であるばかりではありません。苦の認識こそ、ほんとうの人生に目覚める第一歩なのです。すなわち「苦」という自覚が機縁になって、ここにはじめてしっかりした地上の生活がうちたてられてゆくのです。したがって「苦の自覚」をもたない人は、人生の見方が浅薄です。皮相的です。「最も苦しんだ人のみ、人の子を教える資格がある」というのは、それです。お坊っちゃん育ちは、とかく何事を見るにつけ、するにつけ、みんな浅薄です。あさはかです。子供を育てる場合でも、このこつ[#「こつ」に傍点]が必要です。「かわいい子には旅させよ」とは、たしかに味わうべきことばです。
苦の原因[#「苦の原因」は太字] 次に第二の真理すなわち「集諦《じゅうたい》」とは、つまり人生の苦は、どこから起こるかというその「原因」をいったものです。すなわち「苦諦《くたい》」を、いま人生はどうあるかの問題に対する説明とすれば、「集諦」は、「なにゆえにそうであるか」の問題に対する説明ということができましょう。英語でいえばホワット(何か)とホワイ(なにゆえ)といってもよいでしょう。つまり「なにゆえに人生は苦であるか」という、その苦のよって来る原因の説明が、この「集諦」です。苦を招き集めるもの、いわゆる苦の原因が、この「集諦」です。ここでちょっと、仏教とマルキシズム[#「仏教とマルキシズム」は太字]の「苦」に対する考え方を、比較しておく必要があります。かつてマルクス主義者は、口を開けばすぐブルジョアがいけないと、まるで敵《かたき》のように罵《ののし》りました。不倶戴天《ふぐたいてん》のごとくに攻撃いたしました。社会の不安も、社会苦も、生活苦も、ことごとく資本家の罪に帰して、社会機構の欠陥を叫びました。だが、果たしてそれは正しい見方でしょうか。間違いのないほんとうの議論でしょうか。一時、主義者は宗教をアヘンのごとくいいふらしました。そして仏教をも宗教の名のもとに、極端に排撃しました。だが、元来マルクスの宗教理論は、もっぱらキリスト教を中心として考察したものです。仏教のごときは、まったく彼は知らなかったのです。いや、一歩ゆずって、かりに知っていたとしても、マルクスには仏教のふかい教理が、如実に理解されていなかったのです。にもかかわらず、かつての共産主義の人たちは、彼の幼稚な宗教理論を公式的に暗記して、キリスト教とは全くその性質を異にしている仏教をも、宗教という名のもとに排撃の対象としましたが、果たしてそれは正当な認識でしょうか。それから、いったいマルクスのいう現実の苦というのは、無産者だけの苦です。プロレタリヤだけの生活苦です。したがってそれは人間全体の苦ではありません。すなわち釈尊が四苦八苦といわれた、その苦諦《くたい》の苦ではないのです。少なくとも人間苦[#「人間苦」に傍点]といい、社会苦といわれる苦には、資本家だとか、無産者だとかいうような区別はありません。四苦八苦は、人間としての苦しみです[#「人間としての苦しみです」に傍点]。社会的存在としての人間の普遍的な、そして共通の苦しみです。ですから、マルクスのいう苦は、どこまでも経済生活の上の悩み[#「経済生活の上の悩み」に傍点]ですから、四苦八苦のホンの一部分でしかありません。強《し》いていえば「求めて得られざる苦しみ」(求不得苦《ぐふとくく》)でしかありません。
むずかしいめんどうな議論はさし控えましょう。しかし、もう一言ここでいわしていただきたいのは、苦の原因についての問題です。いったいマルクスは、人間苦、いやプロレタリヤの生活苦の原因をば、あくまで社会機構の欠陥に求めました。資本主義制度の矛盾におきました。「資本家の搾取」、それが彼らのスローガンなのでした。それが彼らの一枚看板[#「一枚看板」に傍点]でした。だからその苦の内容は、どこまでも物質でした。経済的でした。語《ことば》を換えて申しますならば、その苦は内よりくるものではなくて、外よりきたものでした。だが釈尊は、これと正反対の立場から、苦の原因を説いているのです。
「実の如く苦の本[#「苦の本」に傍点]を知るとは、いわく現在の愛着の心は、未来の身と欲とをうけ、その身と欲とのために、更に種々の苦果を求むるなりと知る」(中阿含経《ちゅうあごんぎょう》)
すなわち苦の原因は欲[#「欲」に傍点]です。欲こそ苦の本[#「欲こそ苦の本」は太字]です。しかし欲は苦の根源だといっても、私どもは無条件にそれを認めることはできません。なんとなれば、欲はまた歓楽[#「欲はまた歓楽」に傍点]の根源でもあるからです。で、問題は欲そのもの、欲望自体ではなくて、「愛着のこころ」、「執着のこころ」、「囚《とら》われのこころ」が、つまり苦の原因なのです。すなわち人間のもつ普遍的欲望、すなわち五欲そのものが、苦悩の原因ではなくて、ただ、食欲とか、色欲(性欲)とか、睡眠欲とか、財産欲とか、名誉欲のみが、歓楽の根本であると妄信《もうしん》して、これに愛着し、これに執着するこころが、苦の原因だと釈尊はいわれているのです。しかもその五欲に愛着し、執着することは、結局、「因縁」の道理を知らないがためです。すなわち、一切は空であり、無我であることを知らない、無知の無明《まよい》から起こるわけです。ですから所詮、一切の苦の根本は欲であり、欲望に対する執着ではありますが、そのまた根本はつまり無明にあるわけです。無明とは、「十二因縁」の根本となっている、あの無明です。さて五欲について思い起こすことは、『譬喩経《ひゆぎょう》』のなかにある「|黒白[#「黒白」は太字]《こくびゃく》二|鼠[#「二|鼠」は太字]《そ》」の譬喩《たとえ》です。それは非常に面白い、いや深刻な譬喩で、ロシヤの文豪トルストイも、スッカリ感激したきわめて意味ふかい話です。それはこうです。
むかしあるところに一人の旅人がありました。広い野原を歩いていた時、突然、狂象に出逢《であ》いました。おどろいて逃げ去ろうとしましたが、広い広い野原のこと、逃げ隠れる場所とてはありません。しかし幸いにも野原の中に、一つの古い井戸がありました。そしてその井戸には、一筋の藤蔓《ふじづる》が下の方へ垂《た》れ下がっていました。天の与えと喜んで、旅人は急ぎそれを伝って、井戸の中へ入ってゆきました。狂象はおそろしい牙《きば》をむいて覗《のぞ》きこんでいます。ヤレまあよかったと、旅人がホット一|呼吸《いき》していると、井戸の底には怖《おそ》ろしい大蛇《だいじゃ》が口を開いて、旅人の落ちてくるのを待っているではありませんか。駭《おどろ》いて周囲を見まわすと、どうでしょうか、四方にはまだ四|疋《ひき》の毒蛇がいて、今にも旅人を呑《の》もうとしています。命とたのむものは、たった一本の藤蔓です。しかしその藤蔓もです、よく見れば、黒と白の二疋の鼠《ねずみ》が、こもごもその根を噛《かじ》っているではありませんか。もはや万事休すです。全く生きた心地はありません。ところがです。たまたま藤蔓の根に作っていた蜜蜂《みつばち》の巣から、甘い蜜がポタリポタリと、一滴、二滴、三滴、「五滴」ばかり彼の口へ滴《したた》りおちてきたのです。全くこれは甘露のような味わいでした。そこで旅人は、もはや目前の怖しい危険をも、うち忘れて、ただもうその一滴の蜜を貪り[#「一滴の蜜を貪り」に傍点]求めるようになったというのです。
申すまでもなく、曠野《こうや》にさ迷うその旅人こそは、私どもお互いのことです。一疋の狂象は、「無常の風」です。流れる時間です。井戸とは生死の深淵《しんえん》です。生死《しょうじ》の岸頭《がんとう》です。井戸の底の大蛇は、死の影です。四疋の毒蛇は私どもの肉体を構成する四つの元素(地、水、火、風の四大)です。藤蔓とは、私どもの生命です。生命の綱です。黒白二疋の鼠とは、夜昼です。五滴の蜂蜜とは、五欲の事です。官能的欲望です。まことにひとたび、この巧妙な人生の譬喩を聞いたならば、波斯匿《ハシクノク》王ならずとも、トルストイならずとも、まざまざ「人生の無常」を感ぜずにはおれないのです。無常の恐怖に戦慄《せんりつ》せずにはおれないのです。そして、「求道の旅人」とならざるを得ないのです。
さとりの世界[#「さとりの世界」は太字] 次に第三の真理は「滅諦《めったい》」です。「滅」とは生滅の滅で、ものがなくなるということです。ただしここにいう滅とは、苦を解脱したさとりの世界、すなわち「涅槃《ねはん》」のことをいうのです。で、滅の真理すなわち「滅諦」とは仏教の理想である涅槃と同じ意味のことばです。ところで、なにゆえに「涅槃《さとり》」のことを「滅」というかというに、元来「涅槃《ねはん》」の梵語《ぼんご》は、ニイルヴァーナで、「吹き消す」という意味なのです。何を吹き消すか、何を滅するか、といえば、いうまでもなく、苦を吹き消し、「苦」を滅することであります。ところが一般にはさようには解釈されないで、かえって肉体を吹き消し、身体を滅すること、即ち「人間の死」とか、「虚無」とかいうことに考えられているのです。ちょうどあの「往生」ということばが、「死」ということ、と同じように思われているごとく、「涅槃《ねはん》」とか、「成仏《じょうぶつ》」などといえば、死と同一に考えられているのです。しかし、もともと「死」と「涅槃」とは異なっているのです。人間苦の根本となっている「無明」を滅したことが、この「涅槃」です。
「貪欲《どんよく》永《なが》く尽き、瞋恚《しんに》永く尽き、愚痴永く尽き、一切の諸《もろもろ》の煩悩《ぼんのう》永く尽くるを、涅槃という」
と『雑阿含経《ぞうあごんぎょう》』には書いておりますが、とにかく、無明《まよい》の心を解脱して、苦を滅し尽くした境地が、滅諦《めったい》すなわち涅槃です。あの「いろは[#「いろは」は太字]」歌[#「歌」は太字]でいえば、「あさきゆめみじ、ゑひもせず」という最後の一句は、「寂滅為楽《じゃくめついらく》」という「涅槃《ねはん》の世界」をいったものです。「あさきゆめみじ」とは、あさはかな夢をみないということです。「ゑひもせず」とは、無明の酒に酔わされぬということです。つまり「酔生夢死」をしないということで、つまり涅槃《さとり》の世界に安住するその気持を歌ったもので、ボンヤリ一生を送らないということです。
あの謡曲の「三井寺」や、長唄《ながうた》の「娘|道成寺[#「娘|道成寺」は太字]《どうじょうじ》」の一節に、
「鐘にうらみが数々ござる。初夜の鐘をつく時は、諸行無常と響くなり。後夜の鐘をつく時は、是生滅法《ぜしょうめっぽう》と響くなり。晨朝《じんじょう》は生滅滅已《しょうめつめつい》、入相《いりあい》は寂滅為楽《じゃくめついらく》と響くなり。聞いて驚く人もなし。われも後生の雲はれて、真如《しんにょ》の月を眺《なが》めあかさん」
とありますが、「初
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