]の領域です。智慧の哲学と、慈悲の宗教とは少なくとも仏教[#「仏教」に傍点]においては、二にして一です。「かわる心と子や思うらん」といいますが、それはつまり子供の僻目《ひがめ》です。事実は、父も母も、子のかわいさにおいては[#「子のかわいさにおいては」に傍点]、なんら異なっているところはないのです。ある時は叱り、ある時は抱く、それで子供は横道にそれず、邪道に陥らず、まっすぐにスクスクと伸びてゆくのです。

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うたたねも叱り手のなき寒さかな
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 と、一|茶《さ》もいっていますが、たしかに叱り手[#「叱り手」に傍点]のないことは、淋《さび》しいことです。大人《おとな》になればなるほど、この叱り手を要求するのです。頭から、なんの飾り気もなく、自分の行動を批判してくれる人が、ほしいのです。蔭《かげ》でとやかく非難し、批判してくれる人は多いが、面と向かって、忠告してくれる人は、ほんとうに少ないのです。だが、叱り手を要求する私たちは、一方においては、また、黙って抱いてくれる人がほしいのです。善《よ》い悪いは、十分わかっておりながらも、頭からガミガミ叱
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