間も社会も、動いているものと、いうのではありません。唯物史観が偏見であったごとく、何もかも心だ[#「何もかも心だ」に傍点]、といって物質生活、経済生活を否定することも、また同じ意味において、偏見といわざるを得ないのです。精神だけでもって、思想だけでもって、社会が動いていると考えている人は、おそらくないと存じます。「わが抱《いだ》く思想はすべて金なきに因するごとし秋の風吹く」と、薄命詩人石川|啄木《たくぼく》は詠《よ》んでいます。経済のみ[#「経済のみ」に傍点]によってとは、あえて申しませぬが、パンによって、経済によって、現実の社会が動いていることもまた見逃《みのが》しえない事実です。「共同社会」の一面には、儼然《げんぜん》として「利益社会」の存在することも、ハッキリ知っておかねばなりませぬ。だから、唯物論的な見方も、偏見であるように、観念論的な見方も、正しい見方、正見とはいえないのです。意識が存在を決定するように、また存在も意識を規定するのです。私は十数年前から、仏教史観[#「仏教史観」に傍点][#「仏教史観[#「仏教史観」に傍点]」は太字]ということを提唱してきました。この言葉は私が
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