度とくりかえされるものなら、一度は手習い、一度は清書」といっていますが、習字のお稽古《けいこ》だったら、それも可能でしょう。だが、人生は手習いと清書とをわけてやることはできません。手習いがそのまま清書であり、清書がそのまま手習いです。したがってほんとうの書物ではミスプリントがあれば、すなわち誤植があれば、ここが間違っていた、あすこが違っていたというので、後から「正誤表」をつけたり、訂正したりすることができますが、「人生の書物」は、それができないのです。誤植は誤植のまま、誤りはあやまりのままで、永遠に残されてゆくのです。後になって、ああもしておけばよかった、こうもしておけばよかったと後悔しても、すべては皆後の祭りです。ロングフェローが、
「いたずらに過去を悔やむこと勿《なか》れ。甘き未来に望みをかけるな。生きよ、励めよ、この現在に」
 といっているのは、たしかにそれです。かの蓮如上人《れんにょしょうにん》が、
「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候。仏法のことは急げ急げ」
 といっているのは、たしかに面白い語《ことば》です。しかし「明日と申すことあるまじく候[#「明日と申すことあるまじ
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