と名づけておりますが、世間では、時候のよい、暮らしよい時が彼岸だと考えています。しかし彼岸の七日間は時候がよいというので、遊びまわったり、物見遊山に出かけるときではないのです。お寺参りをするとか、お墓まいりをするとか、つまり祖先のおまつりをして祖先の御恩を偲《しの》んで、それを感謝するとともに、自分の生活を静かに反省して修養すべき時が彼岸です。「きょう彼岸さとりの種を蒔《ま》く日かな」で、菩提《さとり》のたねをまく日が彼岸です。いったい、仏教では、この現実の世界、すなわち迷える私たちの不自由な世界をば、この岸、すなわち「此岸《しがん》」といいます。これに対して、理想の世界、悟れる自由な世界を称して、かの岸、すなわち「|彼岸[#「彼岸」は太字]《ひがん》」といっています。ゆえに波羅蜜多とは、つまり、此岸より彼岸へ渡る事[#「此岸より彼岸へ渡る事」に傍点]、つまり人生の目的地《ゴール》へ入ること、ゴール・インすることです。したがって、古来、簡単にこれを「度《ど》」とも訳しております。度とは「わたる」ということで、この岸から向こうの岸へ渡ることです。ところで、仏教の理想《さとり》の世界、すな
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