れ、浄土へ行っても、自分独りが蓮華《はす》の台《うてな》に安座《あんざ》して、迦陵頻伽《かりょうびんが》の妙《たえ》なる声をききつつ、百|味《み》の飲食《おんじき》に舌鼓を打って遊んでいるのでは決してありません。菊池寛氏の『極楽[#「極楽」は太字]』という小説[#「という小説」は太字]の中にこんな話があります。あるお婆《ばあ》さんが、望み通りに極楽へ往生した。はじめのうちこそ、悦《よろこ》んでおったものの、しまいには、いささか退屈を感じ出したのです。そして苦しい娑婆《しゃば》(忍土)の方が、かえって恋しくなったというようなことを、巧みな筆で面白く書いていましたが、それはつまり多くの人たちが、顛倒《てんどう》夢想している極楽の観念を、諷刺《ふうし》したものです。真の極楽はそんなものでない事を暗にいったものです。親鸞上人《しんらんしょうにん》は「煩悩《ぼんのう》の林に遊《いで》て神通を現ずる」(遊煩悩林現神通《ゆうぼんのうりんげんじんつう》)といっておられます。「煩悩の林」とは、苦しみに満ちているこの迷いの世界です。で、つまり極楽へ往生して仏になることは、呑気《のんき》に気楽に浄土で暮らす
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