気もち、真理を求めて往く[#「往く」に傍点]そのすがたと、真理を把《つか》み得て還る[#「還る」に傍点]その姿、若々しい青年の釈尊と、円熟した晩年の釈尊、私はこの『華厳経』と『法華経』を手にするたびに、いつもそうした感じをまざまざと味わうのです。
 右のようなわけで、お経の名前は、それ自身お経の内容を表現しているものですから、昔から、仏教の聖典を講義する場合には、必ず最初に「題号解釈《だいごうげしゃく》」といって、まず題号《なまえ》の解釈をする習慣《ならい》になっています。で、私も便宜上、そういう約束に従って、序論《はしがき》として、この『心経』の題号《なまえ》について、いささかお話ししておきたいと存じます。
 般若ということ[#「般若ということ」は太字] さていま『般若波羅蜜多心経《はんにゃはらみたしんぎょう》』という字の題を、私はかりに、「般若」と、「波羅蜜多」と、「心経」との、三つの語に分析して味わってゆきたいと存じます。まず第一に般若[#「般若」に傍点]という文字ですが、この言葉は、昔から、かなり日本人にはなじみ深い語《ことば》です。たとえば、お能の面には「般若の面」という恐ろしい面があります。また謡曲《うたい》の中には「あらあら恐ろしの般若声《はんにゃごえ》」という言葉もあります。それからお坊さんの間ではお酒の事を「般若湯《はんにゃとう》」といいます。またあの奈良へ行くと「般若坂」という坂があり、また般若寺というお寺もあります。日光へゆくとたしか「般若《はんにゃ》の滝《たき》」という滝があったと思います。こういうように、とにかく般若という語は、われわれ日本人には、いろいろの意味において、私どもの祖先以来、たいへんに親しまれてきた文字であります。しかし、この般若という言葉は、もともとインドの語をそのまま写したもので、梵語《サンスクリット》でいえばプラジュニャー、巴利《パリー》語でいえばパンニャーであります。ところで、そのプラジュニャーまたはパンニャーを翻訳すると、智慧《ちえ》ということになるのです。智慧[#「智慧」に傍点]がすなわち般若[#「般若」に傍点][#「智慧[#「智慧」に傍点]がすなわち般若[#「般若」に傍点]」は太字]です。しかし、般若を単に智慧といっただけでは、般若のもつ持ち味が出ませぬから、しいて梵語の音をそのまま写して、「般若」としたのであります。こんな例は、仏教の専門語にはたくさんありますが、いったい一口に智慧といっても、その智慧には、いろいろな智慧があります。「智慧のある馬鹿に親爺《おやじ》は困りはて」という川柳がありますが、あの智慧のある馬鹿|息子《むすこ》がもっているような、そんな智慧は決して、般若の智慧ではありません。元来、仏教ではわれわれ凡夫の智慧をば仏の智慧と区別して、単に識《しき》といっております。
 愚痴と智慧[#「愚痴と智慧」は太字] その識とはつまり迷いの智慧のことです。愚痴という智慧が、この識です。愚痴の痴は※[#「やまいだれ」、第3水準1−88−44]《やまいだれ》に知という字ですから、つまり智慧が病気にかかっているわけです。したがって、それはもちろんほんとうの智慧ではありませぬ。いったいもの[#「もの」に傍点]の道理を、真に辨《わきま》えないから、いろんな悶《もだ》え、悩み、すなわち煩悩《ぼんのう》が出てくるのですが、愚痴は、つまりものの道理をハッキリ知らないから起こるのです。で、人間が仏陀になることを、識を転じて智を得る[#「識を転じて智を得る」に傍点]といっておりますが、それは結局、迷いを転じて悟りを開くということと同じ意味で、要するにわれわれ迷いの人間が、悟れる仏陀《ほとけ》になるということです。ところで、ここにいう般若の智慧とは、決して愚痴といわれ、識といわれる、人間のもっているあさはかな智慧ではないのです。それは知らざるもの[#「知らざるもの」に傍点]、眠れるもの[#「眠れるもの」に傍点]、迷える人間の智慧ではなくて[#「迷える人間の智慧ではなくて」に傍点]、知れるもの[#「知れるもの」に傍点]、目覚めたるもの[#「目覚めたるもの」に傍点]、悟れる人[#「悟れる人」に傍点]の智慧です。それは宇宙の真理を体得した、仏陀(覚者)のもてる智慧です。真理の智慧、真理を悟った智慧、それがとりも直さず般若の智慧[#「般若の智慧」に傍点]であります。
 ものの道理[#「ものの道理」は太字] さてここで、一言申し添えておきたいことは、真理[#「真理」に傍点]ということです。真理とはなんぞや? ということを、開き直って研究するとなると、たいへんめんどうな、むずかしいことになりますし、またそれを学問的に説明している余裕《ゆとり》もありませぬが、一言にして真理とは何かといえば、それはつま
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