観自在菩薩《かんじざいぼさつ》は、親しく体験せられたのです。そして人生のあらゆる苦悩《なやみ》を克服することによって、苦悩《くるしみ》のない浄土を、この世に、この地上に建設されたのです。したがって、私どもも人生の苦悩を越えて、浄土に生まれんとするならば、どうしても、観音さまのように、空を知らねばなりません。如実に、空のもつ深い意味を認識しなければなりません。空を掴《つか》むことこそまさしく人生の勝利者です。けだし、空をほんとうに知るもの、真に「空に徹するもの」こそ、それはまさしく生身の|活[#「活」は太字]《い》きた観音さま[#「きた観音さま」は太字]です。かかるがゆえに、私どもは、少なくとも、自分の姿において、観自在菩薩を見出すとともに、観自在菩薩において、自己のほんとうの姿を見出さねばならぬものであります。空の意味についてのくわしい説明は、次の講に改めて申し上げることにいたします。
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第三講 色即是空《しきそくぜくう》
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舎利子[#(ヨ)]。
色[#(ハ)]不[#レ]異[#(ラ)][#レ]空[#(ニ)]。
空[#(ハ)]不[#レ]異[#(ラ)][#レ]色[#(ニ)]。
色[#(ハ)]即[#(チ)]是[#(レ)]空[#(ナリ)]。
空[#(ハ)]即[#(チ)]是[#(レ)]色[#(ナリ)]。
受想行識[#(モ)]。
亦復如[#(シ)][#レ]是[#(ノ)]。
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 空即是色花ざかり[#「空即是色花ざかり」は太字] たしか小笠原長生氏の句だったと思いますが、

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舎利子みよ空即是色《くうそくぜしき》花《はな》ざかり
[#ここで字下げ終わり]

 という句があります。ほんとうにこの一句は、これから申し上げようと思っている『心経』の精神を、たいへん巧みにいい現わしていると存じます。申すまでもなく、これは『心経』が骨を折って、力強く説いておる「空」ということばは、決して空々寂々というような、何物もないのだというような、そんな単純な意味のものではない、ということを簡単な一句で巧みに、表現《あら》わしているのです。ところがいよいよこれから、問題の「空とはなんぞや[#「空とはなんぞや」は太字]?」、「空とはどんな意味か[#「空とはどんな意味か」に傍点]」という問題を、説明するのでありますが、はじめから皆さんに「空」とはこんなものだと説明していっては、かえってわかりにくいし、またそう簡単にたやすく説明できるものではないのですから、その「空」を説明する前に、まずはじめに、「空の背景」となり、「空の根柢《こんてい》」となり、「空の内容」となっているところの「因縁[#「因縁」は太字]」という言葉からお話ししていって、そして自然に、空という意味を把《つか》んでいただくようにしたい、と思うのであります。なぜかと申しますと、この「因縁」という意味を知らないと、どうしても空ということが把めないのです。ところで、まず本文のはじめにある「舎利子」ということですが、これはむろん、人の名前です。釈尊のお弟子《でし》の中でも智慧第一[#「智慧第一」に傍点]といわれた、あのシャーリプトラ、すなわち舎利弗尊者《しゃりほっそんじゃ》のことです。いったいこの舎利弗は、もと婆羅門《ばらもん》の坊さんであったのですが、ふとした事が動機《もと》で、仏教に転向した名高い人であります。
 舎利弗の転向[#「舎利弗の転向」は太字] ある日のこと、舎利弗が王舎城《ラージャグリハ》の市中を歩いている時です。偶然にも彼は釈尊のお弟子のアシュバーヂットすなわち阿説示《あせつじ》というお坊さんに出逢ったのです。そしてその阿説示から思いがけなく、次のごときおどろくべき真理の言葉を聞いたのでした。
「一切の諸法は[#「一切の諸法は」に傍点]、因縁より生ずる[#「因縁より生ずる」に傍点]、その因縁を如来は説き給う[#「その因縁を如来は説き給う」に傍点]」
 というのがそれです。今日の私どもには、なんでもない平凡な言葉としか聞こえませんが、さすがに舎利弗には、この「因縁」という一語《ことば》が、さながら空谷《くうこく》の跫音《あしおと》のごとくに、心の耳に響いたのでした。昔から仏教では、この一句を「法身偈《ほっしんげ》」または「|縁起偈[#「縁起偈」は太字]《えんぎげ》」などといっていますが、彼はこの言葉を聞くなり、決然として、永《なが》い間、自分の生命《いのち》とも頼んでおった、婆羅《ばら》門の教えをふり捨てて、ただちに心友の目連尊者といっしょに、釈尊のみ許《もと》に馳《は》せ参じ、ついに仏弟子となったのであります。「因縁[#「因縁」に傍点]」の語を聞いて、仏教に転向
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