われわれの言葉を超越しています」
 そこで今度は、反対に文殊菩薩が、維摩居士に同じく、不二の法門とはなんぞや? と反問しました。すると、維摩はただ黙って、何も答えなかったというのです。
「時に維摩、黙然として、言無し」
 と、『維摩経』に書いておりますが、黙然無言[#「黙然無言」に傍点]の一句こそ、実に文殊への最も明快な答えだったのです。さすがは智慧《ちえ》の文殊です。
「善いかな、善《よ》い哉《かな》、乃至《ないし》、文字語言あることなし。これ真に不二の法門に入る」
 とて、かえって維摩の「黙」を歎称しているのです。古来、「維摩の一黙、声雷《こえらい》のごとし」といっておりますが、この黙の一字こそ、非常に考えさせられる言葉だとおもいます。
 鳴かぬ蛍[#「鳴かぬ蛍」は太字] 「恋にこがれて鳴く蝉《せみ》よりも、鳴かぬ蛍《ほたる》が身を焦がす」といいます。泣くに泣かれぬといいますが、この境地が最も悲痛な世界です。涙の出ない涙こそ、悲しみの極みです。あえて真理にかぎらず、すべてのものごとについても、不完全な私どもの言葉では、とうていものの「真実」、「実際」をありのままに表現することはできないものです。
 一杯の水[#「一杯の水」は太字] 「一杯の飲みたる水の味わいを問う人あらば何とこたえん」です。自分自ら飲んでみなければ、水の味わいもわかりません。うまいか、辛いか、甘いかは自分で飲んでみなければ、その味はわからないのです。「まず一杯飲んでごらん」というより方法がありません。あの有名な『起信論』に「唯証相応《ゆいしょうそうおう》」(唯《た》だ証とのみ相応する)という文字がありますが、すべてさとりの世界は、たださとり得た人によってのみ知られるのです。しょせん、さとり[#「さとり」に傍点]の世界のみではなく、一切はたしかに「冷※[#「火+(而/大)」、42−5]自知《れいなんじち》」です。冷たいか暖かいかは自分で知るのです。ちょうど、子を持って、はじめて子を持つことの悩み、欣《よろこ》びがわかるように、私どもは子をもって、親の恩を知ると同時に[#「親の恩を知ると同時に」に傍点]、子の恩をも知ることができるのです[#「子の恩をも知ることができるのです」に傍点]。三千世界に子ほどかわいいものがないということを知らしてくれたのは[#「三千世界に子ほどかわいいものがないということを知らしてくれたのは」に傍点]、全く子の恩です[#「全く子の恩です」に傍点]。自己を忘れて子供をかわいがる[#「自己を忘れて子供をかわいがる」に傍点]。その無我の心持[#「その無我の心持」に傍点]、利他の喜び[#「利他の喜び」に傍点]を、教えてくれたのは、ほんとうに子供のおかげです。全くうき世のこと、すべて唯証相応です。自ら体験しないと、ほんとうの味がわかりません。
 苦労人の世界[#「苦労人の世界」は太字] 一度も苦労したことのない人には、苦労人のもつ心境は少しもわかりません。入学試験に落第したことのない人には、とうてい落第した人の、悲痛な、やるせない心持がわかろうはずはありません。苦労した人のみ[#「苦労した人のみ」に傍点]、苦労した人を慰め[#「苦労した人を慰め」に傍点]、導き[#「導き」に傍点]、教えることができるのです[#「教えることができるのです」に傍点]。しかも、その慰めは決して言葉ではありません。心持です。気もちです。その態度です。黙って手を握る[#「黙って手を握る」に傍点]、それでよいのです。甘い言葉や、美しい言葉では、とうてい傷ついた人の心を、救うことはできないのです。
 ごく親しい仲のよい友だちが久しぶりで偶然|出逢《であ》います。そんな時には、いろんな、めんどうな御無沙汰《ごぶさた》のおわびや、時候の挨拶《あいさつ》などはありません。「ヤア」「ヤア」といいながら、互いに堅く手を握り合う。それでよいのです。眼が口ほどに、いや口以上にものをいうのです。その「ヤア」という一言で、平素の御無沙汰やら、時候の挨拶は、みんなスッカリ解消してしまっているのです。
 空の一字[#「空の一字」は太字] 話がつい横道にそれましたが、『心経』の空[#「空」に傍点]という一字の裡《うち》には、実に千万無量のふかい意味が、ふくまれているのです。有名なアインシュタインも空一元論を唱えています。たしか宗教哲学者オットーも、宗教の極致は空だと説いています。剣聖宮本武蔵も「空の一字を知れ」といって、門人を誡《いまし》めておりますが、空という一字のなかには、いろんな複雑な、そして深遠な、哲学も宗教も、ことごとく織りこまれているのです。しかもその「空」は仏教のエキスです。したがって空という文字を説明するとなると、なかなか容易なことではありません。しかもその甚深《じんしん》なる空を、
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