さねばならぬと思います。いずれにしても翻訳ということはずいぶん困難な事業でありますが、それについて想い起こすことは、かの「五|種《しゅ》不|翻《ほん》」ということであります。これは有名な、かの玄奘《げんじょう》三蔵が唱えた説でありますが、要するにこれは、どうしても華語すなわち中国の言葉に訳されない梵語が、五種あるというのです。したがってそれは原語の音をそのまま写すだけに止《とど》めておいたわけです。たとえば、インドにあって中国にないものとか、一つの語に多くの意味が含まれているものとか、秘密のものとか、昔からの習慣に随《したが》うものとか、訳せば原語の持つ価値を失う、といったようなわけで、これらの五種のものは、訳さずに漢字で、原語の音標を、そのまま写したわけです。さてこれから申し上げるところの、「般若の呪文《じゅもん》」も、「秘密」という理由で、あえて玄奘三蔵は翻訳せずに、そのまま梵語の音だけを写したわけです。だから、どれだけ漢字の意味を調べても、それだけではとうてい、「呪」の意味は、ほんとうに理解されないわけです。
心経をよめとの詔勅[#「心経をよめとの詔勅」は太字] ところで、この般若の真言について想い起こすことは、今から千百八十九年の昔、すなわち天平宝字《てんぴょうほうじ》二年の八月に下し賜わった淳仁《じゅんにん》天皇の詔勅であります。その勅語の中にこう仰せられております。
「摩詞《まか》般若波羅蜜多は、諸仏の母なり。四句の偈《げ》等を受持し、読誦《どくじゅ》すれば、福寿を得ること思量すべからず。之を以て、天子念ずれば、兵革、災難、国裡《こくり》に入らず。庶人念ずれば、疾疫《しつえき》、癘気《れいき》、家中に入らず。惑《わく》を断ち、祥《しょう》を獲《う》ること、之に過ぎたるはなし。宜《よろ》しく、天下諸国につげ、男女老少を論ずることなく、口に閑《しず》かに、般若波羅蜜多を念誦すべし」
というのであります。これは『続日本紀《しょくにほんぎ》』の第二十一巻に出ておる詔勅ですが、要するに、勅語の御趣旨は、上は、天皇から、下は国民一般に至るまで、大にしては、天下国家のため、小にしては、一身一家のために、『心経』一巻を読誦する暇《いとま》なくば、せめてこの般若波羅蜜多の「呪《じゅ》文」を唱えよ、という思し召しであります。さてただ今も申し上げた通り、いったい「呪《じゅ》」とか「真言《しんごん》」とか「陀羅尼《だらに》」などというものは、いわゆる「一字に千理を含む[#「一字に千理を含む」は太字]」で、たった一字の中にさえ、実に無量無辺の深い意味が含まれているのですから、古来より梵語を強《し》いて翻訳せずして、陀羅尼は、陀羅尼のままに、真言は、真言のままに、呪は、呪のままによみ伝えてきたのです。すなわち陀羅尼にしても、呪にしても、真言にしても、それは神聖にして犯すべからざる仏の言葉であるのと、それにはきわめて深遠な意味が含まれているという所から、梵語の音を、そのままにこれを漢字に写すだけで、わざと翻訳しなかったわけです。したがって昔から、一般にこの般若の四句の呪文[#「四句の呪文」に傍点]は、何がなしに、ありがたい功徳があるというので、そのまま翻訳せずに、信じ且つ誦《とな》えていたのです。しかし人間というものは妙なもので、いえないものを、いってみよ、というのが人間の癖[#「人間の癖」は太字]です。とかく、見るな、というものほど、見たいものです。聞くな、といわれるほど、よけいに聞きたいものです。いや、するな[#「するな」に傍点]といえば、よけいにやってみたい[#「やってみたい」に傍点]のが人情です。で、般若の真言も、そのわけは知らなくてもよい、ただそのまま唱えていれば功徳があるのだ、利益《りやく》があるのだ、といった所でなかなか人間は承知しないのです。「いったいそれはどういう意味なのだ」「わけがわからないものを、むやみにありがたいといって、誦えることはできないではないか」というのです。むろん、それはまことに、一応無理もない話です。いったい人間は[#「人間は」は太字]「考える動物[#「考える動物」は太字]」です。ギリシア語のアントローポスにしたところで、梵語のマヌシャにしたところで、それはいずれも人間という事ですが、その意味は「考えるもの」ということです。思い、考えるものが人間です。この意味において、あのパスカルが「人間は考える|蘆[#「人間は考える|蘆」は太字]《あし》」だといったことばは、非常に面白い、いや、趣があると存じます。全く人間は、あの水際に生えている蘆のように弱いものです。肉体はわずか一滴の水、一発の弾丸《たま》にでも、容易に斃《たお》れる、きわめてか弱いものです。しかしたとい、全世界が武装してかかっても、人間の中から「考
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