、一代の仏教、この二句より他はなし。古池や蛙《かわず》とび込む水の音、この句に我が一風を興せしより、はじめて辞世なり。その後百千の句を吐くに、この意《こころ》ならざるはなし。ここをもって、句々辞世ならざるはなしと申し侍《はべ》るなりと」
 ほんとうの遺言状[#「ほんとうの遺言状」は太字] まことに、昨日の発句は、きょうの辞世、今日の発句こそ、明日の辞世である。生涯《しょうがい》いいすてし句、ことごとくみな辞世であるといった芭蕉の心境こそ、私どもの学ぶべき多くのものがあります。こうなるともはや改めて「遺言状」を認《したた》めておく必要は少しもないわけです。
 私どもは、とかく「明日あり」という、その心持にひかれて、つい「今日の一日」を空《むな》しく過ごすことがあります。いや、それが多いのです。「来年は来年はとて暮れにけり」とは、単なる俳人の感慨ではありません。少なくとも私どものもつ一日[#「一日」に傍点]こそ、永遠に戻り来《きた》らざる一日です。永遠の一日です。永遠なる今日です。「一|期《ご》一|会《え》」の信念に生くる人こそ、真に空に徹した人であります。
 空に徹せよ[#「空に徹せよ」は太字] げに般若の真言こそ、世にも尊く勝れたる呪《まじな》いです。最も神聖なる仏陀《ほとけ》の言葉です。私どもは、少なくとも、般若の貴い「呪」を心に味わい噛《か》みしめることによって、自分《おのれ》の苦悩《なやみ》を除くとともに、一切の悩める人たちの魂を救ってゆかねばなりません。
 空《くう》に徹せる菩薩こそ、真に私どもの生ける理想の人であります。
[#改丁]

第十二講 開かれたる秘密
[#改ページ]

[#ここから3字下げ、ページの左右中央に]
故[#(ニ)]説[#(ク)][#二]般若波羅蜜多[#(ノ)]呪[#(ヲ)][#一]。
即[#(チ)]説[#(イテ)][#レ]呪[#(ヲ)]曰[#(ク)]。
掲諦《ギャテイ》。掲諦《ギャテイ》。
波羅掲諦《ハラギャテイ》。
波羅僧掲諦《ハラソウギャテイ》。
菩提薩婆訶《ボウジソワカ》。
    般若心経
  (といいて般若波羅蜜多心経《はんにゃはらみたしんぎょう》を説き終わる)
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

 秘密の世界[#「秘密の世界」は太字] さてこれからお話し申し上げる所は『心経』の最後の一節でありまして、昔から秘蔵真言分《ひぞうしんごんぶん》と称せられて、一般に翻訳されずに、そのままに読誦《どくじゅ》せられつつ、非常に尊重され、重要視されているのであります。どういう理由《わけ》で翻訳されなかったかというに、いったい翻訳[#「翻訳」に傍点]というものは、詩人のいうごとく、原語に対する一種の叛逆《はんぎゃく》です。よくいったところで、ただ錦《にしき》の裏を見るに過ぎないのです。経緯《たてよこ》の絲はあっても、色彩、意匠の精巧《たくみさ》は見られないのです。たとえば日本独特の詩である俳句にしてもそうです。これを外国語に翻訳するとなると、なかなか俳句のもつ持ち味を、そのまま外国語に訳すことはできないのです。たとえばかの「古池や」の句にしても、どう訳してよいか、ちょっと困るわけです。「一匹の蛙《かえる》が、古池に飛び込んだ」と訳しただけでは、俳句のもつ枯淡《こたん》なさび[#「さび」に傍点]、風雅のこころ[#「風雅のこころ」に傍点]、もののあわれ[#「もののあわれ」に傍点]、といったような、東洋的な[#「東洋的な」は太字]「深さ[#「深さ」は太字]」は、どうしても西洋人にはシッカリ理解されないのです。「花のかげあかの他人はなかりけり」(一茶)の句など、ほんとうに訳す言葉がないように思われます。ひところ、文壇の一部では俳句に対する、翻訳是非の議論が戦わされましたが、全く無理もないことで、外国語に訳すことは必要だとしても、どう訳すべきかが問題なのです。
 翻訳はむずかしい[#「翻訳はむずかしい」は太字] ところで簡単な十七字の詩でさえ、翻訳が不可能だとすると、経典の翻訳などのむずかしいことは、今さら申すまでもありません。したがって梵語《サンスクリット》の聖典を漢訳する場合などは、ずいぶん骨が折れたに相違ありません。昔から、中国の仏教は、翻訳仏教[#「翻訳仏教」に傍点]だとまでいわれるくらいですが、しかし、中国でスッカリ梵語聖典を翻訳しておいてくれたればこそ、私どもは今日、比較的容易に、聖典を読誦し、理解することができるのです。だがまだまだ漢訳でも不十分でありますから、私どもはどうしても、ほんとうの日本訳の聖典を作らねばならぬと存じまして、私などもいろいろそれについて苦心しているわけですが、それにつけても私どもは、経典翻訳者の甚深《じんしん》なる苦心と労力に対して、満腔《まんこう》の感謝の意を表
前へ 次へ
全66ページ中62ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング