空《くう》の真理を、味わうことができるのです。しかし、その空は何物もないという、単なる虚無というようなものではありません。それは有《う》を内容とする空ですから、私ども人間の生活は、空に徹する[#「空に徹する」に傍点]ことによってのみ、有の存在、つまりその日の生活は、りっぱに活かされるのです。かくて、真に空を諦《あきら》め、空を覚悟する人によってのみ、はじめて人生の尊い価値は、ほんとうに認識されるのです。
 播州の瓢水[#「播州の瓢水」は太字] その昔、播州《ばんしゅう》に瓢水《ひょうすい》といふ隠れた俳人がありました。彼の家は代々の分限者で、彼が親から身代を譲りうけた時には、千石船が五|艘《そう》もあったといわれていましたが、根が風流人の彼のこと、さしもの大きい身代も、次第次第に落ちぶれて、あげくのはては、家や屋敷も人手に渡さなければならぬようになりました。しかし彼は、

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蔵《くら》売《う》って日当《ひあた》りのよき牡丹《ぼたん》かな
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 と口ずさみつつ、なんの執着もなく、晩年は仏門に入り名を自得と改めて、悠々《ゆうゆう》自適の一生を、俳句|三昧《ざんまい》に送ったといわれています。その瓢水翁が、ある年の暮れ、風邪《かぜ》をひいてひき籠《こも》っていたことがありました。折りふし一人の雲水《うんすい》、彼の高風を慕って、一日その茅屋《あばらや》を訪れたのですが、あいにく、薬をとりに行くところだったので、「しばらく待っていてくだされ」といい残しつつ、待たせておいて、自分は一走り薬屋へ用たしに行きました。後に残された件《くだん》の雲水、
「瓢水は生命《いのち》の惜しくない人間だと聞いていたが、案外な男だった」
 といい捨てて、そのまま立ち去ってしまったのです。帰ってこの話を近所のものから聞いた瓢水、
「まだそんなに遠くは行くまい、どうかこれを渡してくだされ」
 といいつつ、一枚の短冊《たんざく》に、さらさらと書き認《したた》めたのは、

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浜までは|海女[#「浜までは|海女」は太字]《あま》も|簑[#「も|簑」は太字]《みの》きる|時雨[#「きる|時雨」は太字]《しぐれ》かな[#「かな」は太字]
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 という一句だったのです。
 これを受け取った件《くだん》の雲水、非常にわが身の浅慮を後悔し、再び瓢水翁を訪れて一晩じゅう語り明かしたということです。まことに「浜までは海女も簑きる時雨かな」です。私はこの一句を口ずさむごとに、そこにいい知れぬ深い宗教味を感じるのです。俳句の道からいえば、古今の名吟とまではゆかないでしょうが、宗教的立場から見れば、きわめて宗教味ゆたかな含蓄のある名吟です。やがては濡れる海女さえも[#「やがては濡れる海女さえも」に傍点]、浜までは時雨を厭うて簑をきる[#「浜までは時雨を厭うて簑をきる」に傍点]、この海女の優にやさしい風情こそ[#「この海女の優にやさしい風情こそ」に傍点]、教えらるべき多くのものがあります[#「教えらるべき多くのものがあります」に傍点]。それはちょうど、ほんとうに人生をあきらめ悟った人たちが、うき世の中を見捨てずに、ながい目でもって、人生を熱愛してゆくその心持にも似ているのです。一切空だと悟ったところで、空《くう》はそのまま色《しき》に即《そく》した空であるかぎり、煩わしいから、厭になった、嫌《きら》いになった、つまらなくなったとて、うき世を見限ってよいものでしょうか。まことに「浜までは」です。けだし「浜までは」の覚悟のできない人こそ、まだほんとうに空を悟った人[#「空を悟った人」は太字]とはいえないのです。
 芭蕉の辞世[#「芭蕉の辞世」は太字] あの『花屋日記』の作者は、私どもに芭蕉《ばしょう》翁の臨終の模様を伝えています。
「支考《しこう》、乙州《いっしゅう》ら、去来《きょらい》に何かささやきければ、去来心得て、病床の機嫌《きげん》をはからい申していう。古来より鴻名《こうめい》の宗師《そうし》、多く大期《たいご》に辞世《じせい》有り。さばかりの名匠の、辞世はなかりしやと世にいうものもあるべし。あわれ一句を残したまわば、諸門人の望《のぞみ》足りぬべし。師の言う、きのうの発句はきょうの辞世[#「きのうの発句はきょうの辞世」に傍点]、今日の発句はあすの辞世[#「今日の発句はあすの辞世」に傍点]、我が生涯言い捨てし句々一句として辞世ならざるはなし[#「我が生涯言い捨てし句々一句として辞世ならざるはなし」に傍点]。もし我が辞世はいかにと問う人あらば、この年ごろいい捨ておきし句、いずれなりとも辞世なりと申したまわれかし、諸法従来、常示[#二]寂滅相《じゃくめつのすがた》[#一]、これはこれ釈尊の辞世にして
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