はなくて、やむにやまれぬ菩薩の大悲[#「菩薩の大悲」に傍点]です。「照れば降れ降れば照れとの叫びかな[#「照れば降れ降れば照れとの叫びかな」は太字]」で、私ども人間は勝手なものです。照ればもう降ってくれればよい。降れば、もうやんでくれればよい。実に気儘《きまま》な存在《もの》です。その頑是《がんぜ》ない駄々《だだ》っ子のような私どもを、ながい目で見守りつつ、いつも救いの手をさしのべるのが菩薩です。げに菩薩とは、自分《おのれ》の生きてゆくことが、そのまま他人の生きてゆく光ともなり、力ともなり、塩ともなりうる人です。
無所得の所得[#「無所得の所得」は太字] 要するにこの一段は私どもにして、一度、菩薩の般若の智慧を体得するならば、何人も心になんのわだかまりもなく、さわりもない、かくてこそわれらははじめて、一切の迷いや妄想《もうぞう》をうち破って、ほんとうの涅槃《さとり》の境地に達することができる。しかもそれが「無所得の大所得」だ、ということを教えたものであります。
[#改丁]
第十講 般若は仏陀《ほとけ》の母
[#改ページ]
[#ここから3字下げ、ページの左右中央に]
三世[#(ノ)]諸仏[#(モ)]。
依[#(ルガ)][#二]般若波羅蜜多[#(ニ)][#一]故[#(ニ)]。
得[#(タモウ)][#二]阿耨多羅三藐三菩提[#(ヲ)][#一]。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
災難をよける法[#「災難をよける法」は太字] たしか越後の良寛さんだったと思います。ある人から「災難をまぬがれる妙法|如何《いかん》?」ということを尋ねられたときです。そのとき、彼は、
「病気になった時には、病気になった方がよろしく、死ぬ時には、死んだ方がよろしく候。これ災難を免れる、妙法にて候」
と、答えたということですが、たしかに良寛さんのいうごとく、災難を免れる唯一の妙法は、災難を怖《おそ》れて、それをいたずらに回避することではなく、あくまでその災難にぶつかって、これにうち克ってゆくことです。病気に罹《かか》った時などでも、むやみに早く全快したいとあせらずに、病気を善智識とうけとり、六尺の病床を人生修行の道場と考え、病気と和解し、病気に安住してしまうことです。あのゲーテの『ファウスト』におけるメフィストの、「苦しめることによりて、かえって我れを助け、幸福にする天使となった」というがごとく、病気をいたずらに自分を苦しめる悪魔と考えずに、天使と思って、病気と一つになることです。つまり、病気の三昧《さんまい》に入ることです。そうすればかえって病気は癒《なお》るのです。いや快くならないまでも、病気に安住することができるのです。「病気になった方がよろしく候」というのは、たしかにそれです。病気という災難を逃《のが》れる妙法は、まさしく病気になりきってしまう[#「なりきってしまう」は太字]ことです。病に負けぬことです。私の友人に荒谷実乗という人がいます。たいへん豪胆な、意志の鞏固《きょうこ》な男ですが、彼がかつて軍隊にいた時、何かのはずみ[#「はずみ」に傍点]で、脚部《あし》を負傷したのです。どうしても手術をしなくてはならぬようになって、いよいよ入院して手術室に入りました時、彼は軍医に、麻酔剤の必要はないといって、敢然と手術台に上ったのです。そして非常な苦痛を堪え忍んで、とうとう完全に手術をしてもらったというのです。当時のありさまを彼は私にこういっていました。「自分はどれだけ苦痛に堪え得るものか、それを試《ため》してみたかったのだ」
なるほど、こうなれば人間も大丈夫です。自分で自分を試してみる[#「自分で自分を試してみる」に傍点]、苦痛と戦う自分を客観視するだけのゆとりができれば、もうしめたものです。諺《ことわざ》にも「病は気から」というくらいです。病気に負けてはなりません。病気に勝つことが必要です。いや、勝つか、負けるかを越えて、それにしっかり安住することです。しかしそれは結局、私たちの気持です。心もちです。
今日の問題は戦うこと[#「今日の問題は戦うこと」は太字] 「今日の問題は何か、戦うことなり。明日の問題は何か。勝つことなり。あらゆる日の問題は何か。死すことなり」
と、ヴィクトル・ユーゴーは、あの有名なる『レ・ミゼラブル』の巻頭に書いております。まことに今日の問題は戦うことです。あらゆる災難と戦うことです。清き正しい心をもって飽くなき肉慾《にくよく》と戦うことです。少なくとも「今日の問題」は、所詮《しょせん》、霊と肉との争闘《あらそい》です。しかして、明日の課題は、霊によって肉を征服することです。悟りの智慧によって、迷いの煩悩《ぼんのう》をうち破ることです。だが、あらゆる日の問題は、死ぬことだという、この厳粛なることばを、私どもはよ
前へ
次へ
全66ページ中49ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング