です。
「勝《すぐ》れた智慧をもっている菩薩《ひと》は、乃《いま》し生死をつくすに至るまで、恆《つね》に衆生の利益《りやく》をなして、しかも涅槃に趣《おもむ》かず」
 と『理趣経《りしゅきょう》』というお経に書かれていますが、それが菩薩の念願《ねがい》です。なるほど仏教の理想は、さとりの世界へ行くことです。仏となり、浄土へ生まれ、極楽へ行くことが目的でしょう。しかし自分|独《ひと》りだけが仏になり、わが身独りが、極楽へ行けば、万事OKだ、というのでは断じてありません。人も我れも、我れも人も、いっしょに浄土へ行こうというのが、真の目的なのです。いや、たといわが身は行かずとも、せめて人を仏としたい、浄土へ送りたいというのが、菩薩のほんとうの|念願[#「菩薩のほんとうの|念願」は太字]《ねがい》です。理想です。

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愚かなる我は仏にならずとも衆生《しゅじょう》を渡す僧の身たらん
[#ここで字下げ終わり]

 と、古人もいっておりますが、たとい、自分は仏にならずとも、せめて一切の人々を、のこらず彼岸《さとり》の世界へ渡したいというのが、大乗菩薩の理想です。だから極楽に生まれ、浄土へ行っても、自分独りが蓮華《はす》の台《うてな》に安座《あんざ》して、迦陵頻伽《かりょうびんが》の妙《たえ》なる声をききつつ、百|味《み》の飲食《おんじき》に舌鼓を打って遊んでいるのでは決してありません。菊池寛氏の『極楽[#「極楽」は太字]』という小説[#「という小説」は太字]の中にこんな話があります。あるお婆《ばあ》さんが、望み通りに極楽へ往生した。はじめのうちこそ、悦《よろこ》んでおったものの、しまいには、いささか退屈を感じ出したのです。そして苦しい娑婆《しゃば》(忍土)の方が、かえって恋しくなったというようなことを、巧みな筆で面白く書いていましたが、それはつまり多くの人たちが、顛倒《てんどう》夢想している極楽の観念を、諷刺《ふうし》したものです。真の極楽はそんなものでない事を暗にいったものです。親鸞上人《しんらんしょうにん》は「煩悩《ぼんのう》の林に遊《いで》て神通を現ずる」(遊煩悩林現神通《ゆうぼんのうりんげんじんつう》)といっておられます。「煩悩の林」とは、苦しみに満ちているこの迷いの世界です。で、つまり極楽へ往生して仏になることは、呑気《のんき》に気楽に浄土で暮らすことではない、再び娑婆へ還《かえ》る事です。しかもこの往還[#「往還」に傍点]の二種の回向《えこう》を離れては、少なくとも他力教はないのです。いや、単に浄土教のみではありません。一切の仏教は、ことごとくこの|往相[#「往相」は太字]《おうそう》と|還相[#「と|還相」は太字]《げんそう》との二つの世界を離れてはないのです。因より果に至る(従[#レ]因至[#レ]果)向上門と、果より因に向かう(従[#レ]果向[#レ]因)向下門《こうげもん》、そこに仏教の世界[#「仏教の世界」に傍点]があるのです。「因」とは迷える凡夫です。「果」とは悟れる仏陀《ほとけ》です。迷いより悟りへ、悟りより迷いへ、凡夫より仏陀へ、仏陀より凡夫への道こそ、仏教の道[#「仏教の道」に傍点]です。菩薩の道[#「菩薩の道」に傍点]です。しかも登る道こそ下る道です。下る道こそ上る道です。「上山の道は即ちこれ下山の道」です。
「うき世離れて奥山ずまい[#「うき世離れて奥山ずまい」は太字]」という俗謡があります。あの歌にはたいへん深い宗教的な意味があるかと存じます。「恋も悋気《りんき》も忘れていたが」という、その一句のなかには、迷いの世界と、悟りの世界が示されています。すなわち恋と悋気の世界は、つまり迷いの世界です。あきらめられぬ世界です。だが恋もなく悋気もない世界は、悟りの世界です。スッパリ諦《あきら》めた世界です。もうそこにはうき世の苦しみ、悩みはありませぬ。しかし、果たして自分《おのれ》一人が涼しい顔をして、悟りすましておられましょうか。「鹿《しか》の鳴くこえを聞けば昔が恋しゅうて」とは、決して妻こう鹿のなく声ではありません。恋に泣き、悋気に悩むその声です。社会苦に泣き、人間苦に悩むその切ない叫びです。「衆生《しゅじょう》疾《や》むが故に、われ亦《また》疾む」という菩薩は、とうてい大衆のやるせない叫びに、耳を傾けずにはおられないのです。「他人は他人、俺《おれ》は俺だ」などといって、すましてはおられないのです。「大悲|駭《おどろ》いて火宅の門に入る」で、もうジッとしてはおられないのです。「逢《あ》いたさ見たさに来たわいな」というのはそれです。だが、それは決して久米の仙人《せんにん》が、神通力を失って、下界へ墜落した、というようなものではないのです。それは転落[#「転落」に傍点]ではなくて、随順です。墜落で
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