一面において、「人間は人間にとって神である」とさえいっております。何も彼《か》も、ことごとく「損得」の打算、すなわち「有所得」の心持で動かずに、時には打算を|超[#「打算を|超」は太字]《こ》えた[#「えた」は太字]「無所得」の心持になりたいものです。ほんとうの人間らしい心になりたいものです。そして単に利害とか損得ということだけでなく、正と不正、善と悪、といったような立場から、動きたいものです。われわれの日常の行動が、こういう基準によって行なわれなければ、断じて社会は円満に、円滑にはゆきません。つまりは道義に立脚する行為でなければ、ほんもの[#「ほんもの」に傍点]ではありません。この私の『心経』の講義をお聞きくださっても、おそらくそれは、金|儲《もう》けには、縁遠いことでしょう。直接には一銭の利益もないでしょう。一文の得もないでしょう。経済生活の上には、直接なんの関係もないでしょう。しかしです。「無用の用」こそ、真の用です。私どもはただ自然人としての自分のみを見ずして、文化人として、さらに宗教人[#「宗教人」に傍点]としての自分、いやほんとうの人間としての自分をかえりみなければなりません。かくてこそ、はじめて無所得[#「無所得」に傍点]の意味も、自然に理解されるのであります。
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第九講 恐怖《おそれ》なきもの
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菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51][#(ノ)]。
依[#(ルガ)][#二]般若波羅蜜多[#(ニ)][#一]故[#(ニ)]。
心[#(ニ)]無[#(シ)][#二]※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙[#一]。
無[#(キガ)][#二]※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙[#一]故[#(ニ)]。
無[#(シ)][#レ]有[#(ルコト)][#二]恐怖[#一]。
遠−[#二]離[#(シテ)]顛倒夢想[#(ヲ)][#一]。
究竟涅槃[#(ス)]。
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 すでに私は、『心経』の無所得、すなわち所得なしということをお話ししておきましたが、この無所得の境地は、こういうふうにいい表わしたらよくわかるかと存じます。
 こころの化粧[#「こころの化粧」は太字] かつて私は宅が狭いので、書斎が兼客間でした。応接間でお客と話すことが嫌《きら》いですから、どんな方が見えても、すぐ書斎へ通すのです。その時いちばん困ることは、何か調べものでもしている時には、書斎が書物でいっぱいになっているので、狼狽《あわて》てそこらを片づけてからお客に通っていただいたのです。ところが平生《ふだん》は、割合に片づいているので、いつ何時お客があっても、少しもあわてずにすむのです。ちょうど、そのように、平素心の中が、余計な、いらざる妄想《もうぞう》や、執着という垢《あか》でいっぱいになっていると、いざという場合に臨んで、うろたえ騒がなくてはなりません。御婦人方でもそうです。身だしなみ[#「身だしなみ」は太字]が、チャンとできていると、何時来客があっても、お客を待たせておいて、急いで衣物《きもの》を着かえたり、髪や顔の手入れをなさらずとも、余裕|綽々《しゃくしゃく》として、応接することができるのです。化粧の必要はそこにあるのです。白粉《おしろい》を塗ったり、香水でもつけなければ、化粧でないと思っている方もありましょうが、それは認識不足です。身だしなみをすることが化粧です。だが、髪や形の化粧をするときには、いつも心の化粧をしてほしいものです。心をチャンと掃除して、塵《ちり》や垢《あか》のないようにしておきたいものです。けだし「無所得」の境地というのは、心を綺麗《きれい》さっぱりと片づけておくことです。化粧しておくことです。整頓《せいとん》している座敷、それが無所得の世界だと思えばよいでしょう。なんのこだわりもない純真|無垢《むく》な心の状態が、つまり無所得の世界です。しかも無所得にしてはじめて一切を入れる、大きい所得があるわけです。
 虚往実帰[#「虚往実帰」は太字] 古人は、「虚《きょ》にして往《ゆ》いて、実にして帰る」すなわち虚往実帰《きょおうじっき》ということをいっていますが、他家へ御馳走《ごちそう》になりに行く場合でも、お腹《なか》がいっぱいだと、たとい、どんなおいしい御馳走をいただいても、少しもおいしくありません。だが、お腹を空《す》かして行けば、すなわち虚《きょ》にして往けば、どんなにまずく[#「まずく」に傍点]とも、おいしくいただいて帰れるのです。空腹には決してまずいものはないのです。無所得にしてはじめて所得があるのです[#「無所得にしてはじめて所得があるのです」に傍点]。無所得こそ、真の最も大きい所得
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