#「般若の哲学」に傍点]、それは決して古いインドの哲学ではありません。般若の宗教[#「般若の宗教」に傍点]、それは断じて、亡《ほろ》びた過去の宗教ではないのです。昔も今も、今日も明日も、いや未来|永劫《えいごう》に光り輝く、人生の一大燈明なのであります。
 つまらぬものは一つもない[#「つまらぬものは一つもない」は太字] ところで、いまこの般若の智慧によって、この現実のわれわれの世界を眺《なが》めまするならば、事々物々、一つとして役に立たぬつまらぬものはないのです。あの「つまらぬというは小さき智慧袋」という一句が、きわめて巧みに物語っているように、真理への眼が開けたものにとっては、この世界につまらぬものは一つとして存在していないのです。「医王の眼には百草みな薬」です。つまらぬというのは、ものがつまらぬとか、話がつまらぬというのではなくて、つまり、おのれの智慧袋が小さいからなのです。一たび般若という、大きい智慧によって観照するならば、つまらぬどころか、いずれもみな貴い真理の表われです。ロングフェローの「建築師」という詩の中にこんな言葉があります。

[#ここから2字下げ]
世の中に、無用のものや、卑しいものは、一つもない。
すべてのものは、適所におかれたならば、最上のものとなり、
ほとんど無用のごとく見えるものでも、
他のものに力を与えるとともに、その支《ささ》えともなる。
私たちの建築に供給するために、時の中には、材料がいっぱいになっている。
私たちのもつ今日や明日は、
私たちの建築の有力な材料である。
[#ここで字下げ終わり]

 と。たしかに味わうべき言葉だと思います。
 平凡な一日と貴重な一日[#「平凡な一日と貴重な一日」は太字] 今日や明日という日は、それこそなんでもない平凡な一日[#「平凡な一日」に傍点]です。しかし、その平凡な一日[#「平凡な一日」に傍点]が集まって、私どもの人生を作っているのです。したがって、つまらぬどころか、後《あと》にも先にもない貴い一日[#「貴い一日」に傍点]です。昨日を背負い、明日を孕《はら》める、尊い永遠の一日です。結局、一日をつまらぬ一日にするか、貴い一日にするか、それはつまり私どもお互いの心持です。心のもち方です。ものそのもの[#「ものそのもの」に傍点]が、つまらぬのではなくて、それを見る、それを受けとる智慧袋が小さいわけです。この『心経』に織りこまれている、般若の智慧によるならば、世の中のもの、皆すべてつまらぬものはないのです。いやすべては互いに裏となり表となり、陰《かげ》となり、陽《ひなた》となって生かし、生かされつつある貴い存在《もの》なのです。まことに、「つまらぬというは小さき智慧袋」です。私どもは、少なくとも私どもがお互いに誰でもが持っている霊性、すなわちこの般若の智慧を磨《みが》くことによって、一切のものの生命《いのち》を、より尊く、よりりっぱに活《い》かしてゆかねばうそだと思います。
 波羅蜜多ということ[#「波羅蜜多ということ」は太字] 次に波羅蜜多《はらみた》ということは、般若と同様に、梵語の音そのままを写したものでありまして、原語はパーラミターというのです。ところで、いまそれを翻訳いたしますと、彼岸に到《いた》る、すなわち「到彼岸」という意味になるのです。しかし今日一口に彼岸というと、誰でもすぐにあの「暑さ寒さも彼岸まで」という春秋二季の彼岸を思い起こすのです。一年じゅうで一ばんよい時候、春と秋との皇霊祭(春分の日・秋分の日)を彼岸の中日として、その前後三日の間、合わせて七日間を彼岸と名づけておりますが、世間では、時候のよい、暮らしよい時が彼岸だと考えています。しかし彼岸の七日間は時候がよいというので、遊びまわったり、物見遊山に出かけるときではないのです。お寺参りをするとか、お墓まいりをするとか、つまり祖先のおまつりをして祖先の御恩を偲《しの》んで、それを感謝するとともに、自分の生活を静かに反省して修養すべき時が彼岸です。「きょう彼岸さとりの種を蒔《ま》く日かな」で、菩提《さとり》のたねをまく日が彼岸です。いったい、仏教では、この現実の世界、すなわち迷える私たちの不自由な世界をば、この岸、すなわち「此岸《しがん》」といいます。これに対して、理想の世界、悟れる自由な世界を称して、かの岸、すなわち「|彼岸[#「彼岸」は太字]《ひがん》」といっています。ゆえに波羅蜜多とは、つまり、此岸より彼岸へ渡る事[#「此岸より彼岸へ渡る事」に傍点]、つまり人生の目的地《ゴール》へ入ること、ゴール・インすることです。したがって、古来、簡単にこれを「度《ど》」とも訳しております。度とは「わたる」ということで、この岸から向こうの岸へ渡ることです。ところで、仏教の理想《さとり》の世界、すな
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