」に傍点]に入って、何がなんだか、さっぱりわからなくなってしまうことでしょう。しかし、ここに、かえってまたいうにいわれぬ妙味がある[#「いうにいわれぬ妙味がある」に傍点]のです。いったい仏教の理想は、「迷いを転じて悟り開く」ことです。煩悩《ぼんのう》を断じて菩提《ぼだい》を得ることです。つまり凡夫《ひと》が仏陀《ほとけ》になることです。にもかかわらず、迷いもない、悟りもない、煩悩もなければ、菩提もない。ということは、「いったいどんな理由《わけ》だ」という「疑問」が必ず湧いてくると思います。だが、ここでとくとお考えを願いたいことは、万物は因縁[#「因縁」に傍点]より生じたものだということです。そして「因縁生」のものである限り、皆ことごとく相対的[#「相対的」に傍点]なものだということです。
病があればこそ、薬の必要があるのです。病あっての薬[#「病あっての薬」は太字]です。病にはいろいろ区別があるから、薬にもまたいろいろの薬があるわけです。だが、病が癒《なお》れば、薬も自然いらなくなるのです。風邪《かぜ》を引いた時には、風邪薬の必要があります。しかし、いったん、風邪が癒れば、いつまでも風邪薬に執着する必要はありません。身体の健全な人には、薬の必要がないように、一切をすっかり諦観《あきらめ》た心の健全な人ならば、何も苦しんでわざわざ心の薬を求める必要はありません。いま仮に、東京から京都へ汽車で行くとします。汽車が無事に京都についた時、汽車のおかげだ、汽車はありがたいといって、肝腎《かんじん》な用事をうち忘れて、いつまでも汽車そのもの[#「汽車そのもの」に傍点]に、囚われていたらどうでしょうか。汽車の役目は、人を運ぶ事にあるのです。人を運んでしまえば、汽車の用事はそれですむのです。私どもは、汽車に乗ることが、目的そのものではないのです。目的を忘れて、汽車そのものに、いつまでも執着していることは、全く意味のない事です。だといって、私どもは、決して汽車の必要を認めないものではありませぬ。ここです、問題は。あの順礼の菅笠《すげがさ》になんと書いてありますか。
「迷うが故に三界の城あり。悟るが故に十方は空なり。本来東西なし、何処《いずこ》にか南北あらん」(迷故三界城。悟故十方空。本来無東西。何処有南北)
まことに「本来無東西」です。東西があればこそ、南北があるのです。にもかかわらず、いつまでも、どこへ行っても、いやこれが東だ、いやこれが西だ、といっていたら、果たしてどんなものでしょうか。
ところで、なにゆえに「智もなく亦得もなし」というかと申しますに、それはつまり「無所得を以ての故に」であります。すなわち「無所得だから」というのです。で、問題はここに一転して、「無所得とはなんぞや」ということになるのです。中国の有名な学者|兪曲園《ゆきょくえん》(清朝の末葉に「南兪北張《なんゆほくちょう》」といわれ、張之洞《ちょうしどう》と並び称せられた人)の書いた随筆に、『顔面問答[#「顔面問答」は太字]』というのがあります。それは「口」と「鼻」と「眼」と「眉毛《まゆげ》」の問答です。お互いの顔を見ればわかりますが、いったい人間の顔のいちばん下にあるのが口です。その上が鼻、その上が眼で、いちばん上にあるのが眉毛です。口の不平、鼻の不満、眼の不服は、この眉毛の下にあるということです。彼らは期せずして、眉毛の「存在価値」を疑ったわけです。口、鼻、眼から、「なにゆえに君は僕らの上でえらそうにいばっているのか、いったい君にはどういう役目があるか」と詰問せられた時の眉毛の答えは、実に面白いのです。
「いかにも君らは重大な役目を持っている。食物を摂《と》り、呼吸をし、ものを看視していてくれる君たちのご苦労には、実に感謝している。しかし、今日改まって君たちから、『君の役目はなんだ』と問われると、全くお恥ずかしい次第だが、何をしているのか自分ながらこれだといって答えられない。ただ祖先伝来、ここにいるというだけで、日夜すまぬすまぬとは思いつつ、まあこうして、一所懸命に自分の場所を守っているわけだ。君たちは各自《めいめい》他に誇るべき何物かを持っているだろうが、僕には誇るべき何ものもないのだ。何をしているか、と問われると、お恥ずかしいわけだが、なんと答えてよいやらわからない」
というのです。最後に作者は、こういう言葉をつけ加えております。
「自分は今日まで口と鼻と眼の心懸《こころが》けで暮らしてきた。しかしそれは間違っていた。今後は、ぜひ眉毛の心懸けで[#「眉毛の心懸けで」に傍点]、世を渡りたい」
まことに子供だましのような、つまらぬ馬鹿らしい話です。しかし味わってみるとなかなか意味のある話だと存じます。眉毛の態度はちょっと見ると、いかにも無自覚で、自覚なきがごとく
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