いいます。まさかと思いますが、とにかくこれにヒントを得て作られたのが、あの「茗荷宿[#「茗荷宿」は太字]」という落語です。ところで、その周利槃特の物語というのはこうです。
 彼は釈尊のお弟子のなかでも、いちばんに頭の悪い人だったようです。釈尊は彼に、「お前は愚かで、とてもむずかしいことを教えてもだめだから」とて、次のようなことばを教えられたのです。
「三|業《ごう》に悪を造らず、諸々《もろもろ》の有情《うじょう》を傷《いた》めず、正念《しょうねん》に空を観ずれば、無益《むやく》の苦しみは免るべし」
 というきわめて簡単な文句です。「三業に悪を造らず」とは、身と口と意《こころ》に悪いことをしないということです。「諸々の有情を傷めず」とは、みだりに生き物を害しないということです。「正念に空を観ずれば」の「正念」とは一向専念です。「空を観ずる」とは、ものごとに執着しないことです。「無益の苦を免るべし」とは、つまらない苦しみはなくなるぞ、ということです。たったこれだけの文句ですが、それが彼には覚えられないのです。毎日彼は人のいない野原へ行って、「三業に悪を造らず、諸々の有情を傷めず……」とやるのですが、それがどうしても、暗誦《あんしょう》できないのです。側《そば》でそれを聞いていた羊飼いの子供が、チャンと覚えてしまっても、まだ彼にはそれが覚えられなかったのです。一事が万事、こんなふうでしたから、とてもむずかしい経文なんかわかる道理がありません。
 ある日のこと、祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の門前に、彼はひとりでションボリと立っていました。それを眺《なが》められた釈尊は、静かに彼の許《もと》へ足を運ばれて、
「おまえはそこで何をしているのか」
 と訊《たず》ねられました。この時、周利槃特は答えまして、
「世尊よ、私はどうしてこんなに愚かな人間でございましょうか。私はもうとても仏弟子《ぶつでし》たることはできません」
 この時、釈尊の彼にいわれたことこそ、実に意味ふかいものがあります。
「愚者でありながら、自分《おのれ》が愚者たることを知らぬのが、ほんとうの愚者である。お前はチャンとおのれの愚者であることを知っている。だから、おまえは真の愚者ではない」
 とて、釈尊は、彼に一本の|箒[#「一本の|箒」は太字]《ほうき》を与えました。そして改めて左の一句を教えられました。
「塵《ちり》を払い、垢《あか》を除かん」
 正直な愚者周利槃特は、真面目《まじめ》にこの一句を唱えつつ考えました。多くの坊さんたちの鞋履《はきもの》を掃除しつつ、彼は懸命にこの一句を思索しました。かくて、永い年月を経た後、皆から愚者と冷笑された周利槃特は、ついに自分《おのれ》の心の垢、こころの塵を除くことができました。煩悩《まよい》の塵埃《けがれ》を、スッカリ掃除することができました。そして終《つい》には「神通説法第一の阿羅漢《あらかん》」とまでなったのです。ある日のこと、釈尊は大衆を前にして、こういわれたのです。
「悟りを開くということは、決してたくさんなことをおぼえるということではない。たといわずかなことでも、小さな一つのことでも、それに徹底しさえすればよいのである。見よ、周利槃特は、箒《ほうき》で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか」
 と、まことに、釈尊のこの言葉こそ、われらの心して味わうべき言葉です。「つまらぬというは小さき智慧袋」、私どもはこの一句[#「一句」に傍点]を改めて見直す必要があると存じます。
 無所得の天地[#「無所得の天地」は太字] さてこれからお話ししようと思うところは、「智もなく、亦《また》得もなし、無所得を以ての故に」という一句であります。言葉は簡単ですが、その詮《あらわ》す所の意味に至ってはまことにふかいものがあるのです。しかし、手っ取り早く、その意味を申し上げれば、つまりこうです。
「およそ一切の万物は、すべて皆『空なる状態』にあるのだ。『五|蘊《うん》』もない、『十二|処《しょ》』もない、『十八界』もない、『十二因縁』もない、『四|諦《たい》』もないと、聞いてみれば、なるほど『一切は空だ』ということがわかる。しかも、その空なりと悟ることが、般若の智慧[#「般若の智慧」に傍点]を体得したことだ、と思って、すぐに私どもは、その智慧に囚われてしまうのだ。しかし、元来そんな智慧というものも、もとよりあろうはずがないのだ。いや智慧ばかりではない。そういう体験《さとり》を得たならば、何かきっと『所得』がある、いやありがたい利益や功徳《くどく》でもあろうなどと、思う人があるかも知れぬが、それも結局はない[#「ない」に傍点]のだ」というのが、「無[#レ]智亦無[#レ]得」ということです。
 こうなると、皆さんは、いわゆる迷宮[#「迷宮
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