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無[#(ク)][#レ]智[#(モ)]亦無[#(シ)][#レ]得[#(モ)]。
以[#(テノ)][#二]無所得[#(ヲ)][#一]故[#(ニ)]。
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 ミルザの幻影[#「ミルザの幻影」は太字] 英国の文豪アジソンの書いた『ミルザの幻影』という随筆のなかに、こんな味わうべき話があります。
「人間の一生は、ちょうど橋のようなものだ。『生』から『死』へかかっている橋、その橋を一歩一歩渡ってゆくのが人生だ。だが、その橋の下はもちろんのこと、橋の手まえも、橋の向こう側も、真暗闇《まっくらやみ》だ。その不安な橋をトボトボと辿《たど》ってゆくのが、お互いの人生だ」
 というようなことを書いておりますが、ほんとうになんとなく考えさせられる言葉だと存じます。人生は一本の橋! たしかにそうです。「人生五十、七十古来|稀《ま》れなり」と申していますが、かりに人生を六十年とし、一年を一間として計算するならば、人間の一生は、つまり「六十間の橋渡り」です。二十歳の人は、人生の橋を二十間渡った人です。三十歳の人は三十間、四十歳の人は四十間、五十九歳の人は、もう一間で、人生の橋を渡りきるのです。もう一間でおしまいだと思ったとき、果たしてどんな感じが起こることでしょうか。橋の向こう側には、坦々《たんたん》たる広い道路《みち》でも開けておればまだしも、真の闇だったらどんな気持がすることでしょうか。私の故郷は、伊勢の神戸《かんべ》という小さな城下町ですが、小学校の門を、いっしょにくぐった人たちは、四、五十人もあったでしょう。しかし現在いま故郷に生き残っている友だちは、もうたった五、六人くらいしかありません。どこへ行ったのやら、いつの間にか、ボツンボツンと、まるで水上の泡《あわ》のように消えてなくなりました。六十間の橋を、いっしょに全部渡りきるのだということが、はじめからわかっておればともかく、それがはっきりしていないのですから、全く心細いわけです。あの有名な『レ・ミゼラブル』を書いたフランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーは、「人間は死刑を宣告されている死刑囚だ。ただ無期執行猶予なのだ」といっていますが、たしかにそうです。無期執行猶予なのですから、いつ死ぬかもわからないのです。さすがは文豪です。うまい表現をしたものです。弘法大師は『宝鑰《ほうやく》』という書物の中で、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥《くら》し」といっておられますが、人生の橋渡りを思うにつけても、私はこの言葉を、今さらのごとく新しく思いうかべるのです。
 生は尊い[#「生は尊い」は太字] さてすべては「因縁」だ、因縁によってできている仮の存在だと自覚した時、私どもはそこに「生は儚《はかな》い」ことをしみじみ感じます。しかし、それと同時に、また「生は尊い」という事にも気づくのです。いや、気づかざるを得ないのです。だから、私どもは何事につけてもこの因縁を殺すことなしに、進んでその因縁を生かしてゆく覚悟が大事です。「因縁を殺す」とは、二度と帰らぬ一生を無駄《むだ》に暮らすことです。酔生夢死することです。「因縁を生かす」とは、私どもの一生を尊く生きる[#「尊く生きる」に傍点]ことです。一日一日を、その日その日を「永遠の一日」として暮らしてゆくことです。ああしておけばよかった、こうしておけばよかったというような、後悔の連続する日暮らしであってはなりません。日々の別れであるその一日をりっぱに無駄のないように生かしてゆくことです。ある時、黒田如水が太閤《たいこう》さんに尋ねました。
「どうして殿下《あなた》は、今日のような御身分になられましたか。何か立身出世の秘訣《ひけつ》でもございますか」
 といって、いわゆる「成功の秘訣」なるものを尋ねたのです。その時の秀吉の答えが面白いのです。
「別に立身出世の秘訣とてはないのじゃ。ただその『分』に安んじて、懸命に努力したまでじゃ。過去を追わず、未来を憂えず、その日の仕事を、一所懸命にやったまでじゃ」
 草履《ぞうり》とりは草履とり、足軽は足軽、侍大将は侍大将、それぞれその「分」に安んじて、その分をりっぱに生かすことによって、とうとう一介の草履とりだった藤吉郎は、天下の太閤秀吉とまでなったのです。あることをあるべきようにする。それ以外には立身出世の秘訣はないのです。五代目菊五郎が、「ぶらずに、らしゅうせよ」といって、つねに六代目を誡《いまし》めたということですが、俳優《やくしゃ》であろうがなんであろうが、「らしゅうせよ[#「らしゅうせよ」は太字]」という言葉はほんとうに必要です。私はその昔、栂尾《とがのお》の明慧上人《みょうえしょうにん》が、北条泰時
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