情です。愚痴といって非難されましょうが、そこが人間のやるせない[#「やるせない」に傍点]心持です。わが娘《こ》を嫁にやる時、門出に流す母親の涙は嬉《うれ》しい涙ではありましょうが、それはまた悲しみの涙でもあるのです。嬉しいはずだが、やはりそこには「愛する者と別れる」という、一種の悲しい世界もあるのです。あきらめたようで、その実あきらめられず、あきらめられぬようで、いつとはなしに人間は「忘却」ということによって、あきらめているのです。「人間は忘却する動物だ」とニイチェもいっていますが、面白いことばだと思います。全く人間というものは妙な存在です。その妙な存在である人間の集まっているこの社会も、また複雑怪奇で、そう簡単には解釈できないわけです。「人生は円の半径だ[#「人生は円の半径だ」は太字]」といいますが、人生も社会も「割りきれぬ」ところにかえって妙味があるのかも知れません。割りきれぬものを、割りきったように考えるところに、人間の分別《はからい》があるのです。迷いがあるのです。とにかくあきらめたと思うのも、自分、あきらめられぬというのも、自分です。お互い人間は、なんといっても矛盾の存在です。
「人生は不満と退屈との間を動揺する時計の|振子[#「人生は不満と退屈との間を動揺する時計の|振子」は太字]《ペンジュラム》だ[#「だ」は太字]」とショウペンハウエルはいっております。あるいはそうかも知れませぬ。求めて得られない時には、なんとなく不満を感じます。しかし幸いにその求めたものが得られても、そこには必ず退屈が生ずるのです。「歓楽|極《きわ》まって哀情多し」というか、「満足の悲哀」というか、とにかく不満の反対は退屈です。私どもの人生を、不満と退屈の間を動揺する、時計の振子に譬《たと》えた哲学者のことばの中には、味わうべき何ものかがあると存じます。どうみても、人間は幾多の矛盾を孕《はら》める動物です。矛盾の存在、それが人間でしょう。さてこれからお話ししようとする所は、四つの真理[#「四つの真理」は太字]、すなわち「四|諦《たい》」についてでありますが、『心経』の本文では、「苦、集、滅、道もなし」という所です。ところで、この四諦の「諦」という字ですが、これは「審」とか「明」などという文字と同一で、「明らかに見る」ことです。「審《つまびらか》に見る」ことです。だから「あきらめる」とは「諦観《たいかん》」することで、つまり、もののほんとうの相《すがた》を見ること、すなわち真実を見きわめることです。したがって、釈尊があきらめた世界、ハッキリ人生を見きわめた世界を、説いたのがすなわち仏教です。しかもその仏教の根本は、結局、この四諦、すなわち四つのあきらめ[#「あきらめ」に傍点]、すなわち四つの真理にあるのです。しからばその四つの真理とは何か、といえば、それは、「苦」と「集」と「滅」と「道」の四つで、これを四諦といっています。わかりやすくこれをいえば、「人生は苦なり」ということと、その苦はどこからくるかという、「その苦の原因」と、「その苦を解脱した世界」と、「その苦を除く方法」を教えたのが、すなわち「四諦」の真理です。で、「苦、集、滅、道もなし」という『心経』のこの一節は、このまえ「十二因縁」の下で、お話ししたごとく、空の立場からいえば、四諦の真理もないというのです。「一切皆空」の道理からいえば、迷と悟との因果を説いた、この四諦の法もないわけです。さてまず、「苦諦」ということから考えてゆきましょう。いったい「人生は苦だ[#「人生は苦だ」は太字]」とか、「うきよは苦悩《なやみ》の巷《ちまた》」だということは、たしかに真理です。世間でよく「四苦八苦の苦しみ」と申しますが、ほんとうに考えてみると、人生は四苦八苦[#「四苦八苦」に傍点]どころか、さまざまの苦しみ、悩みがあるのです。
 これについてこんな話があります。その昔ペルシャ(現今のイラン)にゼミールという王さまがありました。年若きゼミール王は、「即位」の大典をあげるや、ただちに天下の学者に命じて、最も精密なる「人類の歴史」を編纂《へんさん》せしめたのです。王さまの命令に従って、多くの学者たちは、懸命に人類史の編纂にとりかかりました。一年、二年はまたたく間に過ぎました。五年、十年は、夢のように過ぎました。二十年、三十年の長い年月を経ても、世界で最も「精密なる人類史」は容易にできません。四十年、五十年の長い長い時間を費やして、やっと書き上げた。その人類史の結論[#「人類史の結論」は太字]は、果たしてなんであったでしょうか。「人は生まれ[#「人は生まれ」は太字]、人は苦しみ[#「人は苦しみ」は太字]、人は死す[#「人は死す」は太字]」それが人類史の結論[#「人類史の結論」に傍点]だったのです。人は生まれ、人
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