分《ひぞうしんごんぶん》と称せられて、一般に翻訳されずに、そのままに読誦《どくじゅ》せられつつ、非常に尊重され、重要視されているのであります。どういう理由《わけ》で翻訳されなかったかというに、いったい翻訳[#「翻訳」に傍点]というものは、詩人のいうごとく、原語に対する一種の叛逆《はんぎゃく》です。よくいったところで、ただ錦《にしき》の裏を見るに過ぎないのです。経緯《たてよこ》の絲はあっても、色彩、意匠の精巧《たくみさ》は見られないのです。たとえば日本独特の詩である俳句にしてもそうです。これを外国語に翻訳するとなると、なかなか俳句のもつ持ち味を、そのまま外国語に訳すことはできないのです。たとえばかの「古池や」の句にしても、どう訳してよいか、ちょっと困るわけです。「一匹の蛙《かえる》が、古池に飛び込んだ」と訳しただけでは、俳句のもつ枯淡《こたん》なさび[#「さび」に傍点]、風雅のこころ[#「風雅のこころ」に傍点]、もののあわれ[#「もののあわれ」に傍点]、といったような、東洋的な[#「東洋的な」は太字]「深さ[#「深さ」は太字]」は、どうしても西洋人にはシッカリ理解されないのです。「花のかげあかの他人はなかりけり」(一茶)の句など、ほんとうに訳す言葉がないように思われます。ひところ、文壇の一部では俳句に対する、翻訳是非の議論が戦わされましたが、全く無理もないことで、外国語に訳すことは必要だとしても、どう訳すべきかが問題なのです。
翻訳はむずかしい[#「翻訳はむずかしい」は太字] ところで簡単な十七字の詩でさえ、翻訳が不可能だとすると、経典の翻訳などのむずかしいことは、今さら申すまでもありません。したがって梵語《サンスクリット》の聖典を漢訳する場合などは、ずいぶん骨が折れたに相違ありません。昔から、中国の仏教は、翻訳仏教[#「翻訳仏教」に傍点]だとまでいわれるくらいですが、しかし、中国でスッカリ梵語聖典を翻訳しておいてくれたればこそ、私どもは今日、比較的容易に、聖典を読誦し、理解することができるのです。だがまだまだ漢訳でも不十分でありますから、私どもはどうしても、ほんとうの日本訳の聖典を作らねばならぬと存じまして、私などもいろいろそれについて苦心しているわけですが、それにつけても私どもは、経典翻訳者の甚深《じんしん》なる苦心と労力に対して、満腔《まんこう》の感謝の意を表
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