の浅慮を後悔し、再び瓢水翁を訪れて一晩じゅう語り明かしたということです。まことに「浜までは海女も簑きる時雨かな」です。私はこの一句を口ずさむごとに、そこにいい知れぬ深い宗教味を感じるのです。俳句の道からいえば、古今の名吟とまではゆかないでしょうが、宗教的立場から見れば、きわめて宗教味ゆたかな含蓄のある名吟です。やがては濡れる海女さえも[#「やがては濡れる海女さえも」に傍点]、浜までは時雨を厭うて簑をきる[#「浜までは時雨を厭うて簑をきる」に傍点]、この海女の優にやさしい風情こそ[#「この海女の優にやさしい風情こそ」に傍点]、教えらるべき多くのものがあります[#「教えらるべき多くのものがあります」に傍点]。それはちょうど、ほんとうに人生をあきらめ悟った人たちが、うき世の中を見捨てずに、ながい目でもって、人生を熱愛してゆくその心持にも似ているのです。一切空だと悟ったところで、空《くう》はそのまま色《しき》に即《そく》した空であるかぎり、煩わしいから、厭になった、嫌《きら》いになった、つまらなくなったとて、うき世を見限ってよいものでしょうか。まことに「浜までは」です。けだし「浜までは」の覚悟のできない人こそ、まだほんとうに空を悟った人[#「空を悟った人」は太字]とはいえないのです。
 芭蕉の辞世[#「芭蕉の辞世」は太字] あの『花屋日記』の作者は、私どもに芭蕉《ばしょう》翁の臨終の模様を伝えています。
「支考《しこう》、乙州《いっしゅう》ら、去来《きょらい》に何かささやきければ、去来心得て、病床の機嫌《きげん》をはからい申していう。古来より鴻名《こうめい》の宗師《そうし》、多く大期《たいご》に辞世《じせい》有り。さばかりの名匠の、辞世はなかりしやと世にいうものもあるべし。あわれ一句を残したまわば、諸門人の望《のぞみ》足りぬべし。師の言う、きのうの発句はきょうの辞世[#「きのうの発句はきょうの辞世」に傍点]、今日の発句はあすの辞世[#「今日の発句はあすの辞世」に傍点]、我が生涯言い捨てし句々一句として辞世ならざるはなし[#「我が生涯言い捨てし句々一句として辞世ならざるはなし」に傍点]。もし我が辞世はいかにと問う人あらば、この年ごろいい捨ておきし句、いずれなりとも辞世なりと申したまわれかし、諸法従来、常示[#二]寂滅相《じゃくめつのすがた》[#一]、これはこれ釈尊の辞世にして
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