中には一切の仏の説かれた教えが」に傍点]、ことごとく含まれている[#「ことごとく含まれている」に傍点]、ということをいったものであります。ところで弘法大師はこの呪文をば、声聞《しょうもん》と縁覚《えんがく》と菩薩と仏の真言として四通りに配釈しておりますが、声聞[#「声聞」に傍点]と縁覚[#「縁覚」に傍点]とは小乗、菩薩[#「菩薩」に傍点]と仏[#「仏」に傍点]とは大乗(第一講を見よ)でありますから、結局大小乗一切の仏教は、ことごとくこの「般若波羅蜜多」という一つの呪[#「一つの呪」に傍点]に摂《おさ》まってしまうわけです。ゆえに今日わが国には、十三|宗《しゅう》、五十数派、いろいろの宗旨や宗派もありますが、それがいずれも仏教である以上、つまりいろいろの角度からいろいろの方面から、この「般若の呪」を説明し、解説したものということができるのであります。したがって、われらにして、もしもほんとうに観自在菩薩のように、般若の智慧を磨いて、如実《にょじつ》にこれを実践し、実行するならば、自己の苦しみはいうまでもなく、他人の一切の苦しみをも、よく除きうるのでありまして、それを『心経』に、「能《よ》く一切の苦を除く、真実にして|虚[#「真実にして|虚」は太字]《むなし》からず[#「からず」は太字]」といってあるのです。全く真実|不虚《ふこ》です。嘘《うそ》だといって疑う方がわるいのです。真理だ、ほんとうに疑うべからざる真理だとして、ただ信じ、これを実行すればよいのです。けだし「般若波羅蜜多」という事は、屡次《るじ》申し上げたごとく、彼岸へ渡るべき智慧の意味であり、同時にそれは迷いのこの岸から、悟りの彼岸へ渡った、仏のもっている智慧であります。しかもその智慧は、一切は因縁[#「因縁」に傍点]だと覚《さと》る所の智慧ですから、結局、因縁という二字を知るのが、この般若の智慧です。かつて、釈迦は「因縁」の真理に目醒《めざ》めることによって、覚れる仏陀《ほとけ》になったのです。したがって、私どももまた、この因縁の真理をほんとうに知ることによって、何人も仏になりうるのです。しかも因縁を知ったものは、因縁を殺す[#「殺す」に傍点]ものではなくて、因縁をほんとうに生かす[#「生かす」に傍点]人です。しかもその因縁を|活[#「因縁を|活」は太字]《い》かす人[#「かす人」は太字]こそ、はじめて一切|
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