ヌッタラ、サミャク、サンボーディン」というのであります。すなわち阿耨多羅《アヌッタラ》とは無上[#「無上」に傍点]という意味で、これ以上のものはないということです。次に三藐《サミャク》ということは、偽りない、正しいという意味です。それから三菩提《サンボーディン》ということは、すべての智慧が集まっておるという意味で、※[#「蝙」の「虫」に代えて「彳」、第3水準1−84−34]《あまね》く知る、またはひとしく覚《さと》る、という意味で、「※[#「蝙」の「虫」に代えて「彳」、第3水準1−84−34]智《へんち》」もしくは「等覚」というふうに訳されています。菩提はすなわち、覚証《さとり》の世界です。で、つまり「阿耨多羅《あのくたら》三|藐《みゃく》三|菩提《ぼだい》」とは、訳していえば「無上正※[#「蝙」の「虫」に代えて「彳」、第3水準1−84−34]知《むじょうしょうへんち》」または「|無上正等覚[#「無上正等覚」は太字]《むじょうしょうとうがく》」というべきであります。換言すれは、「この上もない真実なさとり[#「さとり」に傍点]」という意味が、阿耨多羅三藐三菩提[#「阿耨多羅三藐三菩提」は太字]ということです。あの比叡山《ひえいざん》をお開きになった伝教《でんぎょう》大師は、

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あのくたらさんみゃく(さみゃく)さんぼだい(さんぼじ)の仏たち
わが立つ杣《そま》に冥加《みょうが》あらせたまえ
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 と詠んでいられますが、「あのくたらさんみゃくさんぼだいの仏たち」というのは、ただ今申し上げましたように、無上正等覚を得たまえる仏たちよ、すなわち、ほんとうの悟りを得たまえるみ仏たちよ、という意味です。
 いつか、ある所へ講演に参りました時、私はある人から、
「いったい、仏さまには、楽しみばかりで、苦しみは少しもないものでしょうか」
 と問われたことがあります。その時、私はこう答えました。
「仏さまだとて、苦しみもあり、また楽しみもありましょう」
 といったところ、その人はいかにもけげんな顔をして、
「いったん仏様となれば、楽しみばかりで、苦しみはないと思っていましたが」
 といわれたのです。そこで私は次のように答えました。
 大悲の疾い[#「大悲の疾い」は太字] あの名高い『維摩経《ゆいまぎょう》』というお経には、「衆生の疾《やま
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