夜の鐘は諸行無常、入相の鐘は寂滅為楽」などというと、いかにも厭世《えんせい》的な滅入《めい》ってゆくような気がします。しかし、それはさように考える方が間違いで、暁の鐘の音、夕を告げる鐘の音を聞くにつけても、私どもは、死に直面しつつある生のはかなさ[#「はかなさ」に傍点]を痛感すべきではあるが、しかもそれによって、私どもは今日生かされている、生の尊さ、ありがたさを、しみじみ味わわねばいけないということを唄《うた》ったものです。だから、「聞いておどろく人もなし」ではいけないのです。せめて鐘の音を聞いた時だけでも、自分《おのれ》の生活を反省したいものです。「真如《しんにょ》の月」を眺めるまでにはゆかなくとも、ありがたい、もったいないという感謝[#「感謝」に傍点]の気持、生かされている自分、恵まれているわが身の上を省みつつ、暮らしてゆきたいものです。鐘の音、といえば、かのミレーの描いた名画に「アンゼラスの鐘[#「アンゼラスの鐘」は太字]」というのがあります。年若き夫婦が相向かって立っている図です。互いに汚《きたな》いエプロンをかけて首《こうべ》をうなだれて立っている図です。今しも鍬《くわ》をかついて帰りかけた若い夫が鍬を肩から下《お》ろして、その上に手をのせて、静かにジット首をうなだれています。画の正面は一つの地平線、もう夕靄《ゆうもや》がせまっています。畑の様子はよくわからないが、右寄りの方には、お寺の屋根の頂が見えています。それが夕日《にしび》をうけて金色に輝いています。黄昏《たそがれ》をつげるアンゼラスの鐘が夕靄に溶けこんで流れてくるのです。なんともいえない感謝の心に溢《あふ》れながら、法悦の満足を、両手に組み合わせて、向かい合って立っている年若き夫婦の姿。あのミレーの「晩鐘」を見る時、私どもはクリスチャンでなくても、そこになんともいえない敬虔《けいけん》な気分に打たれるのです。鐘の響きこそ、まことに言葉以上のことばです。
八つの道[#「八つの道」は太字] 次に第四の真理は「道諦《どうたい》」です。道諦とは、「涅槃《さとり》」の世界へ行く道です。「滅諦」に至る方法です。苦を滅する道、心の苦をとり除く方法です。ところで、釈尊はこの「涅槃《さとり》」の世界へ行く方法に、八つの道があると説いています。八|正道《しょうどう》というのがそれです。正道とは正しい道です。偏《かた
前へ
次へ
全131ページ中71ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング