偶然か、加藤家の老夫婦は、友江さんが結婚してから半年たたぬうちに相次でなくなりました。友江さんにとっては、この上もない不幸ですが、信之に取っては思わぬ幸運が来たものといわねばなりません。彼は養父母を失うと、それまで勤めて居た会社をやめて家にひっこんでぶらぶら暮して居ました。
皆さん、そうした状態に置かれた加藤家が首尾よく栄えようとは想像出来ないでしょう。何か暗い運命が落ちかかって来るだろうことが誰にも予期されます。全く、その通りで、恐しい運命の手は、先ず、無垢な友江さんを擒《とりこ》に致しました。即ち、友江さんは、私が信之に予言したごとく、彼の怖しい病気に感染したのであります。
加藤家には、旧主人に愛された老婆が一人雇われて居《お》りましたが、信之は、何かにつけて、うるさく思い、養父母の死後、間もなく暇を出して、若い女中とかえました。然し、その女中は一月たたぬに暇を取り、それから後は、来る女中も、みんな、早いのは一週間ぐらいで暇を取りました。その理由は後にわかったことですが、信之は、それ等の女中に不倫にも言い寄ったらしいのです。それは一つには、信之の淫蕩な性質が然《しか》らしめたのでもありますが、又一つには友江さんの容色が日に日に衰えて行ったからでもあります。いう迄もなく、その恐しい病気のために※[#感嘆符二つ、1−8−75]
皆さんは黴毒の二期、三期の患者の世にもみじめな姿を御存じですか。感染してから半ヶ年も過ぎた頃には、顔から身体中に種々の吹出ものが出ます。脣の色は蒼白くなって、口中は石榴《ざくろ》のようにただれます。それのみならず、ことに女にとって一ばん恐しいことは、髪の毛が束になって抜けることです。一櫛ごとにはらはらと、いや、はらはらどころか、こっぽりと抜けて来ます。皆さんは義太夫の「四ツ谷怪談」の文句を御承知でしょう。女主人公のお岩が、毒薬をのまされて、にわかに顔がはれ上り、髪の抜け落ちるところに、
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「しんき辛苦の乱れ髪、びんのおくれも気ざわりと、有合《ありあう》鏡台《きょうだい》抽斗《ひきだし》の、つげの小櫛もいつしかに、替り果てたる身の憂《うさ》や、心のもつれとき櫛に、かかる千筋《ちすじ》のおくれ髪、コハ心得ずと又取上げ、解くほどぬける額髪《ひたいがみ》、両手に丸めて打ながめ……」
[#ここで字下げ終わり]
とありますが、本当にこのお岩そっくりの相好といってよいのが、黴毒患者の状態であります。
どうです、皆さん、無邪気な加藤家の一人娘友江さんは、伊右衛門ならぬ良人《おっと》のために、お岩そっくりにされてしまったのです。今に何か恐しい怪談じみた出来事があっても誠にふさわしい事情ではありませんか。皆さん、実際、これからが、私のお話ししようとする怪談の本筋に入《い》るのです。
[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]
さて、自分の妻が病気のために、こういうなさけない姿になったら、いや、すでに、かような進んだ状態にならぬ前に、世の常の良人《おっと》ならば、必ず医師にかけるのが当然でありましょう。ところが信之は無情冷酷といってよいか、何といってよいか、友江さんを医者にかけなかったのであります。医者にかければ、直ちに黴毒と診断され、彼のうつしたものであることが妻に知れるのを怖れたからであります。たといおとなしい妻でも、事の真相がわかれば、どんな態度に出るやらわからず、又場合によっては、医師が智慧をかして、そのため離婚の訴訟などを起されてはならぬと思い、彼はそのままに捨てて置いたのであります。何も知らぬ友江さんは、ただもう自分の不運とあきらめて、その日その日を送ったのですが、信之は後に友江さんの姿を見ることにさえ一種の不快を感ずるに至りました。それがため彼は外出して、その不快の念を晴らそうかとも思いましたが、留守中に友江さんが医者を訪ねるようなことがあってはならぬからと、家にのみ引込み、従って彼は性的興奮にかられて、女中に手をつけようとしたのであります。
すべて運命の神は、一旦その手をもって人を虐げにかかると、どん底まで引き込まねばやまぬものですが、可憐の友江さんもその例に洩れないで、黴毒は遂に彼女の脳を冒し、精神に異常を来《きた》したのであります。かような精神異常は、駆黴療法《くばいりょうほう》を行えば、すぐなおるのですが、何しろ一度も医師にかけぬのですから、精神異常は日に日に重くなるばかりでした。ことに友江さんは妊娠中だったので、たださえ女子の妊娠時には、精神異常を来し易いのですから、ますます悪い条件が重なった訳です。始め高度の憂鬱状態に陥った彼女は、度々自殺を計るようになりましたので、さすがの信之も閉口して、日夜、警戒監視を怠りませんでした。
かような事情の中へ、新らしく一人の女
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