わかりになりますまいからこれからその実例を述べようと思うのですが、それが又、今晩の主題たる怪談とも縁故があるのです。
私は花柳病《かりゅうびょう》を専門として開業しましてから、二年目に妻を迎えました。私が二十五、妻が二十一でした。こうして、白髪の生えかかった今でも、怪談や探偵小説が好きですから、ましてその頃は至って冒険的精神に富んで居《お》りました。似たもの夫婦とでも言いますのか妻が又大の冒険家で、いっそ二人で映画俳優にでもなろうかと相談しあったことさえありましたが、その頃は現今《いま》とちがって、日本の活動写真界は極めて幼稚なもので、到底私たちの希望に叶いそうもありませんでしたから、無論その話は沙汰止みになりましたが、只今は、子供が五人もあって、妻などはすっかり冒険的精神をなくしてしまい、私だけが、多少まだ冒険心を残して居るに過ぎません。
さて、結婚して半年ほど過ぎたある日のことです。夫婦生活も半年に及ぶと、少くとも私たちのような冒険好きなものに取っては聊《いささ》か倦怠を覚えざるを得ませんでした。その倦怠を覚えかけたところへ、二十五六になる一人の男が診察を受けに来ました。診察の結果、黴毒《ばいどく》の初期だとわかりましたから、その旨を告げると、男は、
「先生、三ヶ月後に僕は結婚しなければなりませんから、それ迄に治して下さい」
と言いました。私はそれをきいて、直ちに、
「それは無謀です。少くとも結婚は一ヶ年御延しなさい。さもなければお嫁さんに伝染します」
と忠告しました。すると男は、
「それが、どうしても延すことの出来ぬ事情ですから、何とか方法を講じて下さい」
と頻りに頼みました。何を頼まれても、こればかりは、どうにも仕様がないので、そのことを告げると、
「仕方がありません。この儘結婚します」と、彼は自暴自棄的に言いました。
私はぞっ[#「ぞっ」に傍点]としました。私は顔色をかえて、純潔無垢な花嫁に怖しい黴毒をうつすことは人道に反した卑怯《ひきょう》な行為であるから、たといどんな事情があろうとも、延期するのが男らしいではないかと懇々と諭すと、彼は却って腹を立てて私に喰ってかかりました。医者は黙って患者を診療して居《お》ればよい、余計な世話を焼くな、と、こういうのです。私も癪《しゃく》にさわりましたから、「君がそういう料簡《りょうけん》なら僕にも考えがある。僕は人道上、花嫁に事情を告げるだけだ」と申しました。
これをきいた彼は益々怒り出しました。彼は某大学の法科を出たので、相当に法律の知識に富んで居たと見え、「他人の秘密をあばくなら、刑法に触れるから、それを覚悟でやるがよい」という意味の捨科白《すてぜりふ》を残して、さっさと帰って行きました。
皆さん、従来、日本では黴毒患者の結婚ということが、左程《さほど》の大問題とはなって居ないようですが、私は花嫁となる人が気の毒でなりませんでした。如何にも刑法の規定に依《よ》ると、医師は業務上取扱ったことで知り得た他人の秘密を故なく漏すと罰せられることになって居《お》りますが、純潔無垢な花嫁に黴毒をうつすことが罪にならないで、それを妨げるのが却って罪になるのですから、悩みを感ぜざるを得ないじゃありませんか。私も刑法に触れてまで、その男の秘密をあばく気にはなりませんでしたから、私は妻に向って、ひそかにこの悩みを打明けました。すると、妻は私に非常に同情し、結婚するその娘さんを救うのは、あなたの義務だと申しました。然し、法律に触れないでどうしたなら、その娘さんを救うことが出来ましょうか。そこで私たちは種々相談してその手段を考えましたが、もとより、良い方法のある筈はありません。
何はともあれ、先ず、彼と結婚する娘の身許を探らねばならぬと思い、種々探索の結果、件《くだん》の男は××区のある旧家へ養子をするのだとわかりました。驚いたことには、あの時彼自身の口から三ヶ月後に結婚するといったに拘《かかわ》らず、三週間過ぎると結婚してしまいました。養子先は加藤という財産家で、さほど大きな邸宅ではありませんが、旧幕時代からあって、可なり広い庭園にかこまれて居ました。娘の名は友江といって十九歳の美人、養子となった彼の名は信之ですが、信之は元来、加藤家の財産を宛に養子をしたらしく、彼が「延すことの出来ぬ理由」といったのは、延せば他から養子を迎えるという虞《おそ》れに過ぎぬようでした。そうしたさもしい心の持主である上に、身体までが病毒に汚されて居たのですから、加藤家こそいい迷惑です。況《いわん》や無邪気な友江さんは尚更《なおさら》可哀相なものです。友江さんは文字通りの箱入娘で、世間のことは何一つ知らず、良人《おっと》一人を後生大事と侍《かしず》いて居るのでした。
養子を貰って安心したせいか、又は
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