、血清を分け、腐らぬようにガラス管の中へ保存したものです。
 私はまず、ガラスの皿の上に、暖めた食塩水を少し入れ、その中へ俊夫君が削り取ってきた板の血痕を、細いガラス棒をもってとかし込みました。それから、携えてきた沈澱素を取りだし、その少量を細い試験管に配り入れ、およそ十五分の後、その沈澱素の中へ、血痕をとかした液を加えますと、見る間に白い沈澱があらわれました。
 これだけの実験では、まだ人間の血だと断言することができません。というのは、人間に近い動物すなわち猿の血痕でも同じように沈澱を起こすからです。けれど人間の血か猿の血かを区別することは、うちの実験室へ帰ってからでなくては行い難いのです。この場合、風呂場に猿の血があったとは考えにくいですから、私は人間の血だといっても差し支えないと思いました。
 俊夫君は、私が以上試験をしている間、書斎の中を隅から隅まで捜しました。机の引き出しをあけて中をかきまわしたり、本棚の書物を取りだしてふるってみたりしました。最後に机の脇の本箱の横側にかけてあった丸善の『日めくり暦』に目をつけ、何思ったかそれを取りあげて熱心に撥繰《はぐ》っていましたが、やがて、「あった、あった」と叫びました。

 あまりに、俊夫君の声が大きかったので、私のそばに立っていたPのおじさん、すなわち小田刑事はびっくりして尋ねました。
「何があったんだ? 俊夫君」
「遠藤博士の寿命を縮めたものです」
「何だい?」
「毒瓦斯《どくガス》の秘密ですよ」
 と俊夫君は得意げに言いました。
「遠藤先生を殺した犯人は、先生の発見された秘密を握ろうと思って、この書斎の中を随分さがしたらしいです。けれど、さすがに先生は、金庫の中や、机の引き出しや、書物の中に隠すようなヘマなことはされなかったんです。
 先生は丸善のこの『日めくり暦』の十二月の下旬のところへ、四五枚にわたって、毒瓦斯製造法の秘密を書いておかれたんです。暦は毎年十二月の末に送ってくるものですから、先生は、新しい暦が到着したらまた書きかえるつもりだったのでしょう。毎日めくり取られる暦の中に、大秘密が書いてあるなんて、誰だって考えやしません。そこが遠藤先生のえらいところです。だからとうとう犯人は、これをよう見つけなかったんです」
 こう言って、俊夫君は『日めくり暦』をポケットの中に入れました。
「この暦はしばらく僕が借りておきます。これで犯人を捕まえるのですから、うっかり他人《ひと》に話してはいけませんよ。……時に兄さん、血痕の検査はどうなった?」
 俊夫君は試験管の中の白い沈澱を見て言いました。
「やっぱり、人間の血だね。よし、兄さんちょっとお嬢さんに来てもらってくれ」
 雪子嬢が書斎に入るなり、俊夫君は尋ねました。
「大学はいつから始まるはずでしたか?」
「今月の二十一日からです」
「休み中に先生は学校へお行きになりましたか?」
「いいえ、家《うち》に閉じこもっていました」
「昨晩あなたが須磨からお帰りになったとき、先生のそばへお行きになりましたか?」
「いいえ、機嫌の悪い時はかえって怒らせるようなものですから、寝室の入口に立っていました」
「寝室は薄暗かったとおっしゃいましたね?」
「父は明るい所で寝るのが嫌いでした」
「先生の声はいつもと違っていませんでしたか?」
「少しかすれていましたが、病気のせいでしたでしょう」
「先生は毎日顔をお剃りになりましたか?」
「剃るのは嫌いな方でした」
「最近には、いつお剃りでしたでしょうか」
「寝ついた十一日の朝です。その晩、会があったので、いやいやながら剃りました」
「風呂はいつおたてになりましたか?」
「私が兄を呼びに出かけた十三日の夕方です」
「けれどさっき検《しら》べたとき濡れていたではありませんか」
「あれは毎朝、書生の斎藤さんが冷水浴をするのです」
 俊夫君はしばらく考えて、再び尋ねました。
「先生のご親戚はありますか」
「叔父が一人あります。父の弟で、今、朝鮮にいるはずです」
「何をやって見えるですか?」
「何もきまった仕事はやっていないようです。自分で朝鮮浪人だと言っています」
「先生とは違ってよほど変わった人らしいですね?」
「ずいぶん変わり者です。蛇の皮をまいたステッキや、蟇《がま》の皮で作った銭入れや、狼の歯で作った検印などを持って喜んでいます」
 俊夫君の顔はにわかにうれしそうに輝きました。と、その時、警視庁の白井刑事が一人の青年を連れて入ってきました。令嬢は青年を見て、
「おや、斎藤さん、兄はどうしましたか?」
 と尋ねました。
 書生の斎藤が答えぬ先に白井刑事は言いました。
「信清さんはまだお帰しできないのです。私はお嬢さんに少しお尋ねがあって来ました」こう言って小田刑事の姿を見て、
「小田君、君は何の用で?」
 と言いました。
「俊夫君の案内役さ」
「や、俊夫君、ご苦労様」
 と、白井刑事は俊夫君を軽蔑するような口調で言いました。
「お嬢さんの依頼でお邪魔しています。時に解剖の結果どうでしたか」
 俊夫君は尋ねました。
「死因は絞殺だそうだ」
「そりゃはじめから分かっていますよ」
 と俊夫君は笑って斎藤の方を向いた。
「斎藤さん、先生はゆうべたいへん機嫌が悪かったそうですね?」
「たいへん悪かったですよ」
「一時頃に信清さんを呼びにいったのはあなたですか」
「僕です」
「先生は信清さんと喧嘩されましたか?」
「何だか言い合っていられました。僕は先へ寝ましたからよく知りません」
「今朝《けさ》先生の死んでいられることを見つけたのは誰ですか?」
「婆やです」
「婆やはどうしました?」
 このとき令嬢が口を出して、婆やは博士の死に驚いて気分が悪くなり、いま奥で休んでいると告げました。
「兄さんちょっと来てくれ、お使いに行ってもらいたいから」
 こう言って、俊夫君は意味ありげに眼くばせして、室《へや》を出てゆきましたので、私はその後からついて出ました。
 玄関のところへ来ると、俊夫君は小声になって言いました。
「兄さん、すまないが、これから電話室の後ろの物置部屋に入って隠れていてくれ、僕はこれから書斎へ行って、この暦の話をするんだ。そうすると、きっと誰かが電話をかけにくる。そしたら、何番の誰を呼びだして、どんな話をするか聞いて、この紙に書いてきてくれ、もっとも話は分からぬでもよい」
 私は紙と鉛筆を受け取って言われるままに、薄暗い物置部屋の隅にしゃがんで誰が電話をかけにくるかと、耳をすまして待ちかまえました。一分、二分、三分、こういう時の一分は一時間にも相当します。あたりは森閑《しんかん》としていて、自分の心臓の鼓動さえ聞こえました。
 十分ほど過ぎると、電話室の扉《ドア》の静かにあく音がしました。
「大手の三二五七番」
 と、呼びだしたのは、まさしく書生の斎藤の声です。
「もしもし、通り四丁目の蔦屋《つたや》ですか、青木さんを呼んでください」
 しばらくすると、斎藤は何やら話しだしましたが、符丁《ふちょう》のような言葉づかいで、何を言っているのかさらに分かりませんでした。およそ三分間ばかり話してから、再び扉をこっそり閉めて、あちらの方へ去りました。
 そこで私は物置部屋を出て、いま聞いたことを紙に書き、書斎に入ってゆきました。と、俊夫君が出てきて、
「兄さん、ご苦労様」
 と言いながら、私から紙片を受け取り、一応それを見てさらに何やら書きつけ、小田刑事に渡しました。
「Pのおじさん、すみませんが、これからお使いに行ってください。用事はここに書いてあるから」
 小田刑事は俊夫君の言うことなら、何でも聞いてくれます。
「それじゃ白井君、ちょっと失礼するよ」
 こう言って小田さんは出てゆきました。

   朝鮮浪人

 小田刑事が出ていった後で、私たち五人――白井刑事、俊夫君、令嬢、書生、私――はしばらくのあいだ黙って、互いに顔を見合わせておりましたが、やがて白井刑事は落ち着かぬ声で俊夫君に尋ねました。
「俊夫君、犯人は分かったか?」
「あら、犯人は信清さんだというじゃないですか?」
 と俊夫君は意地悪そうな顔で言いました。
「それが証拠というのは、あの手拭《てぬぐ》いだけだからねえ……」
「それじゃもっと他の証拠を集めたらどうです」
「だから、犯罪の動機を聞きにきたわけさ」
「すると財産のことですか、遠藤先生が亡くなられれば、財産はとうぜん信清さんのものでしょう」
「その財産のほしいような事情が最近に無かったか聞きたいのだ」
「お嬢さんどうですか?」
 と俊夫君が申しました。
「兄は身体《からだ》が弱いのでどこへも遊びに行かず、月々私は父の命令で百五十円ずつ送っておりましたが、それさえ使いきれぬぐらいでした」
 こう答えてから令嬢は、白井刑事の質問に答えつつ、兄さんのおとなしい性質を逐一物語ったので白井刑事もしまいには、
「ふむ、してみると殺害の動機はやっぱり毒瓦斯《どくガス》の秘密かな」
 と言いました。
 俊夫君は、白井刑事と令嬢との長い問答にもあまり耳を傾けず、時々懐中時計を出して見ては、何だかそわそわしていましたが、ちょうど、小田刑事が去られてから三十分ほどたったとき、突然、大声で、
「白井さん、早く信清さんを帰らせてください。ねえ、斎藤さん、信清さんに罪は無いでしょう」
 と申しました。
「僕は知りません」
 と書生は少し面食らって言いましたが、白井刑事も俊夫君の声に驚いて、
「なぜ?」
 と聞きました。
「なぜって白井さん、先生の殺されなさったのは昨夜《ゆうべ》じゃないですから」
「え?」
 と白井刑事は驚きましたが、私たちも意外のことに呆気《あっけ》にとられました。
「先生が殺されなさってから、少なくとも三日はたっています」
「何?」
 と白井刑事。
「ははは、そんなにびっくりしなくてもよろしいですよ。だから、ゆうべ帰った信清さんが殺すはずはないでしょう」
「その証拠は?」
 と白井刑事は息をはずませて言いました。すると、俊夫君はますます落ちついて、
「あるどころか、僕は犯人も知っています」
 と叫びました。令嬢と書生は一生懸命に俊夫君の顔を見つめました。
「誰?」
 と白井刑事。
「皆よく聞いてください。遠藤先生を殺したのは、髭のない、かすれた声の男で、冬は蝙蝠《こうもり》の皮をつなぎ合わして作った襟巻をしています」
「まあ、それなら私の叔父です。叔父は朝鮮にいるはずですのに※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 と令嬢は叫びました。

 この時そばにいた書生の斎藤は、身を翻して逃げだしました。
「それッ」と俊夫君が指をさしだしたので、私は躍りかかって書生を捕まえると、彼は死に物狂いで抵抗しました。
「白井さん、早く斎藤に手錠をかけてください、斎藤は共犯者です」
 白井刑事は、どきまぎしながらも、とにかく、俊夫君の言うままに手錠をかけますと、斎藤は死人のように青白い顔をして俯《うつむ》いていました。
 と、この時、さっき出ていった小田刑事がはあはあ言いながら入ってきました。
「俊夫君、難なく捕まったよ」
 と小田さんは、冬にもかかわらず額の汗を拭き拭き、うれしそうに言いました。
「それは有り難う」
 こう言って俊夫君は斎藤のそばに歩み寄りました。
「斎藤君お気の毒だが、犯した罪は引き受けねばならぬよ。さあもう何もかも白状しなさい。蔦屋《つたや》の青木さん、いやお嬢さんの叔父さんも捕まったそうだから」
 斎藤は眼をつぶったまま黙っていました。
「よろしい」
 と俊夫君は申しました。
「君が白状しないならば、僕が代わりに君たちの犯罪の顛末をお話ししよう。すなわち君は遠藤先生の恩を仇で返したんだ。
 先生の弟すなわち朝鮮浪人の手先となって、お嬢さんが須磨へ出立された十三日の晩に、二人で、病気中の先生を絞殺し、先生の死体を風呂桶の中へ入れ、腐らぬように雪を取ってきて桶につめ、お嬢さんと信清さんが帰ってこられた昨晩、死体をベッドの下へ運んできておき、ベッドの上には叔父さんが付け髭をして、先生の
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