姉さんでも大丈夫だろうから」
ビリーが病気にかかった時、弘《ひろむ》はこう発議して、いつも、薬袋を其処へ置くことになって居た。その薬袋がないのである。由紀子は暫く考えて居たが、
「そうそう、今朝|弘《ひろむ》ちゃんが、楊枝をつかいながら嚥《の》ませて居たから、……そうかも知れない」
独り呟《つぶや》き、独りうなずいて、彼女は階段を上りかけたが、突然中途で、釘づけにされたように立ちどまった。二階へあがって弘《ひろむ》の部屋へはいっても、部屋へはいったということが知れてはならなかったからである。弘《ひろむ》には妙な癖があって、彼女がたまたま留守中に部屋へはいると、あとで弘《ひろむ》は、襖の閾《しきい》に線を引いて置いたが、それがちがった位置になって居るとか、硯箱《すずりばこ》について居た指紋が僕のとちがうとか、蜘蛛の巣が破れて居るとか、書物の置き方が乱れて居るとかいっては、由紀子をなじるのであった。
「あなたのお部屋にはどんな秘密があるの」
ある時由紀子がたずねると、
「なに、秘密なんかあるもんですか。ただ、あの部屋は僕のオアシスです。それに塵っぽいから姉さんの呼吸器に毒です」
と、弘《ひろむ》は答えるだけであった。
こうした訳で、久しく由紀子は弘《ひろむ》の部屋を訪れなかったが、折角治りかけたビリーの薬が遅れても困るので、思い切って階段をあがると、彼女は八畳の隣りの弘《ひろむ》の部屋の襖を何の躊躇もなくすうとあけた。
「まあ、きたないこと!」
由紀子は思わず顔をしかめた。部屋の中は足を踏み立てるひま[#「ひま」に傍点]もないほど乱れて居た。机と火鉢と座蒲団《ざぶとん》が一所にかたまって、其の周囲には、書籍だの新聞だの雑誌だの、紙屑だのが、無茶苦茶に放り出してあった。「大へんなオアシスだこと!」こう呟いて由紀子は吹き出したくなった。鴨居《かもい》の上には二段にして、くるりと四方へ、種々雑多な煙草の空箱が積みならべてあった。突き当りの袋棚の下の縁板の上には夜具が敷きっ放され、唐草模様の更紗《さらさ》のカーテンが半分ほど引かれてあった。
由紀子は入口の閾に棒立ちになったまま、暫く室内を見まわしたが、ややあって、薬袋を本箱の上に見出したので、爪先ではいりながら、なるべく歩かないように、白い腕をのばして取り上げた。
すると、ちょうど、その下の、スクラップブックに
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング