鼻に基く殺人
小酒井不木

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)弘《ひろむ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今朝|弘《ひろむ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)きめ[#「きめ」に傍点]
−−

「もうじき、弘《ひろむ》ちゃんが帰ってくるから、そうしたら、病院へつれて行って貰いなさい」
 由紀子は庭のベンチに腰かけて、愛犬ビリーの眼や鼻をガーゼで拭《ぬぐ》ってやりながら、人の子に物言うように話すのであった。
「ほんとうに早くなおってよかったわねえ、お昼には何を御馳走してあげましょうか」
 ビリーはまだ、何となく物うげであった。彼は坐ったまま尾をかすかに振るだけであった。呼吸器を侵されて、一時は駄目かと思われるほどの重病から、漸《ようや》く恢復したこととて、美しかった黒い毛並も色《つや》を失って、紅梅を洩れる春の陽《ひ》に当った由紀子の白いきめ[#「きめ」に傍点]を見た拍子に、一層やつれて見えるのであった。
「これでいい。どれ、見せて頂戴、まあ、綺麗になったこと」
 拭き終った由紀子は、こう言いながらガーゼを捨てて、エプロンのポケットから、ビスケットを取り出してビリーに与えた。ビリーは、あまえるようにして、由紀子の股に、咽喉《のど》のあたりをぴったりつけて食べるのであった。
 由紀子は暫くの間、自分もビスケットを食べながら、一度は傷《きずつ》いたことのある肺臓へ、今はふっくりとした胸壁を上下させながら、春の空気を思う存分呼吸した。弟の弘《ひろむ》と二人暮しの閑寂な生活で、ビリーは自分の愛児のようになつかしかった。
「弘《ひろむ》ちゃんは遅いのねえ、きっとまたどこかへ寄り道をしてくるのよ。悪い人ねえ」
 突然、ラウドスピーカーが昼間演芸の放送をはじめた。零時十分なのだ。
「そうそう、お薬をのまなけりゃ、ちょっと待っていらっしゃいよ」
 彼女が膝の塵をはたきながら立ち上ると、ビリーは、どたりと腹を地に据えて、前脚をつき出した。
 前の放送の終った頃にのませるべき筈だったのを、うっかりして居た責任感から、由紀子はあわてて椽側にかけ上った。そうして、ラジオセットの前に来ると、ビリーの薬袋はどこへ行ったか見当らなかった。
「放送が始まったら、ビリーに薬をやることにしましょう。そうすりゃ、いくら忘れっぽい
次へ
全7ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング