らば発狂してしまうにちがいないと思った。
とりとめのない感想に耽りながら、彼は、歩くともなく歩いて、いつの間にか下宿の前に来ていた。彼は立ちどまってあたりを見まわし、そっと入口の格子戸をあけ、あわただしく主婦に挨拶して、走るように二階にあがった。多分もう八時を過ぎているだろうと思ったが時計を見る勇気さえなかった。
「梅本さん、お夕飯は?」階段の下で主婦の声がした。
「いりません」
「お済みになって?」
「まだ」
「まあ、では拵えましょう」
「いえ、いいんです。食べたくないんです」
いつもならば、机に向って円本の一冊を開くのだが、今夜はとてもそんな気になれなかった。急いで床をとって寝ようとすると、主婦は膳をもってあがって来た。
「もうはや、おやすみになりますの、折角拵えたから、少しでもあがって下さい」こういって彼の前に膳を据えた。そうして自分も坐りながら、暫く躊躇してからいった。
「実は今日のおひるからお留守にあなたのことをききに来た人がありますのよ」
清三はぎょッとした。「え? それではもしや鳥打帽をかぶった、色の黒い……」
「ええ、よく御存じで御座いますねえ、実は黙っていてくれ
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