さんにも随分永らく御無沙汰いたしましたわ。わたし、色々の事情があって、とうとうこんなことを初めるようになりましたの。ここではよし子といっておりますのよ。これから時々来て下さいねえ。またあとでゆっくり話しに来ますわ」
こういい置いて、彼女は忙しそうに去った。
重くるしい感じが一しきり清三を占領した。が、女給の持って来たウイスキーをぐっと一息にのむと幾分か心が落ちついて来た。そうして、陽気なジャズの蓄音機をきいているうちに、だんだん愉快になって行った。
が、その愉快な気持も長く続かなかった。続かないばかりか、折角の酔心地が一時にさめるかと思った。というのは、ふと顔を上げて入口の方を見ると、そこに、電車の中で見た鳥打帽の探偵が友人らしい男と頻《しきり》に話しながら陣取っていたからである。
「いよいよ俺をつけているんだな。それにしてもどうして俺がここへはいったことを知っていたのだろう。たしかに電車からは一しょに下りなかった筈だのに」
彼は探偵というものが、超人的の力を持っているのではないかと思った。こんなに巧に追跡されては、所詮自分の罪もさらけ出されてしまうだろう。と考えると冷たいものが背筋を走った。
友人とさもさも呑気そうに話していながらたえず自分の行動を注視しているかと思うと薄気味が悪かった。清三はもう一刻もカフェーにいたたまらなくなったけれど、入口をふさがれているので、いわば身動きも出来ぬ苦境に陥れられたようなものである。
その時さっきの女給がとおりかかった。
「よし子さん」と、彼は小声で呼びとめた。「実はあそこに僕の厭な人間が来ているんです。ここの家は裏へ抜けられないかしら?」
「抜けられますわ」
「それじゃ奥へ話して僕を出してくれませんか」
「よろしゅう御座います」
やがて彼は勘定を払って、よし子の案内で勝手場から裏通りへ出た。
星は罪のない光を発して、秋の夜空を一ぱい埋めていた。清三は用心深くあたりを見まわしたが、探偵らしい影はなかった。彼は泣きたいような気持になって、ひたすらに下宿へ急いだ。明日の日曜日の午後には妙子を訪問する約束になっているのだが、こんなに探偵に監視されては、外出するのが恐ろしかった。
清三は罪を犯したものの心理をいま、はっきり味わうことが出来た。僅な罪でさえこれであるのに、人殺しでもしたら、どんなに苦しいのか、きっと自分な
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