い。ほかにまだ数人の店員がいるのだから、いっそいつまでも黙って突張ろうか」
遂にはこんな自暴自棄な考えまで起こった。
いつの間にか乗客が殖えて、清三と鳥打帽の男との間は遮《さえぎ》られた。清三が恐る恐る首をのばして男の方をながめると、男は相変らず夕刊に耽っていた。
清三は、今のうちに立ち上った方がよいと思って、次の停留場が来るなり、こそこそと電車を降りた。すると、幸いにも、そこで降りたのは、彼ともう一人、子を負んだ女の人だけだったので、むこうへ走って行く電車を見送りながら、清三はほッと太息《ためいき》をついた。
今頃探偵はきッと自分のいないことを発見したにちがいない。そうして次の停留場で降りるにちがいない。こう思って彼は急ぎ足で鋪石を踏みならしながら、第一の横町をまがった。するとそれが、いやに人通りの多い町で、馬鹿にあかるく、道行く人がじろじろ彼の顔をながめるように思えたので彼は逃げるように、更にある暗い横町にまがった。いつもならば彼はまっすぐに下宿に帰るのだが、今夜はその勇気がなかった。それに少しも空腹を覚えなかったので、彼はどこかカフェーへでも行って西洋酒を飲もうと決心した。
ぐるぐると暗い街をいい加減に歩いて、やがて賑かな大通りが先方に見え出したとき、ふと傍に、紫色の硝子にカフェー・オーキッドと白く抜いた軒燈を見た。外観は小さいが、中はテーブルが五六十もあるカフェーで、いつか友だちと来たことがあるので、彼は吸い寄せられるようにドアを押した。
客はかなりにこんでいたが、都合よく一ばん奥のテーブルがあいていたので、常になくくたびれた気持で清三は投げるように椅子に腰かけた。そうして受持の女給にウイスキーを命じ、ポケットからバットを取り出して見たものの、マッチを摺るのが、いやに恥かしいような気がして躊躇した。
「あら、梅本さんお久しぶりねえ」
突然、通りかかった一人の女給が声をかけた。見るとそれは、かつて恋人の妙子と共にM会社のタイピストをしていた女である。二三度妙子の下宿であったのだが、まさかカフェーの女給をしていようとは思わなかった。
「やあ」清三はどぎまぎしながら答えた。そうして無理ににこにこしようとしたが、それは、へんに歪んだ顔になっただけであった。
「どうかなすったの? 妙子さんは相変らずお達者?」と、彼女は意味ありげな顔をしていった。
「妙子
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