らば発狂してしまうにちがいないと思った。
とりとめのない感想に耽りながら、彼は、歩くともなく歩いて、いつの間にか下宿の前に来ていた。彼は立ちどまってあたりを見まわし、そっと入口の格子戸をあけ、あわただしく主婦に挨拶して、走るように二階にあがった。多分もう八時を過ぎているだろうと思ったが時計を見る勇気さえなかった。
「梅本さん、お夕飯は?」階段の下で主婦の声がした。
「いりません」
「お済みになって?」
「まだ」
「まあ、では拵えましょう」
「いえ、いいんです。食べたくないんです」
いつもならば、机に向って円本の一冊を開くのだが、今夜はとてもそんな気になれなかった。急いで床をとって寝ようとすると、主婦は膳をもってあがって来た。
「もうはや、おやすみになりますの、折角拵えたから、少しでもあがって下さい」こういって彼の前に膳を据えた。そうして自分も坐りながら、暫く躊躇してからいった。
「実は今日のおひるからお留守にあなたのことをききに来た人がありますのよ」
清三はぎょッとした。「え? それではもしや鳥打帽をかぶった、色の黒い……」
「ええ、よく御存じで御座いますねえ、実は黙っていてくれとの御話でしたけれど、何だかいいお話のように思えましたので」
「何という名だといいました?」
「名刺を貰いましたよ」こういって主婦は袂《たもと》から名刺を取り出した。清三が顫える手で受取って見ると「白木又三郎」という名で、隅には「国際生命保険会社」とその番地電話番号が印刷されてあった。
「どこまで探偵というものは狡猾なものだろう。彼は店を出るなりすぐその足で生命保険会社員となってここへさぐりに来たのだ」
こう考えてから、彼は思わず叫んだ。
「馬鹿にしてる。生命保険がきいてあきれる」
「え? 名前がちがいますか」主婦は驚いてたずねた。
「いや……それで何をきいて行きましたか」
「あなたの故郷だとか、生立ちだとかでした。もとより私は委しいことは知りませんから、何も申しませんでしたが、ただ本籍だけはいつか書いたものを頂きましたので、それを見せてやりました」
「それだけですか、それから何か僕の品行だとか……」
「いいえ別に。何だか話振《はなしぶり》から察すると、あなたに福運が向いているように思われましたよ」
福運どころか、どえらい不運だ! と、清三は思った。やがて主婦が、食べて貰えなかった
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