卑怯な毒殺
小酒井不木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)孔《あな》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結果|食道瘻《しょくどうろう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)にやり[#「にやり」に傍点]
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 病室の一隅には、白いベッドの掛蒲団の中から、柳の根のように乱れた毛の、蒼い男の顔が、のぞいていた。その顔の下半分には、口だけが孔《あな》となって、厚い繃帯《ほうたい》がかけられてあった。
 ベッドの脇には干物《ひもの》のように痩《や》せた男が立っていた。彼は兀鷹《はげたか》のように眼をぎょろつかせて、病人の不思議な感じのする顔をじっと睨んでいた。床頭台上《しょうとうだいじょう》に点ぜられた台附電灯の光が、緑色のシェードを通じて、ゼリーのように、変に淀んだ空気を漂わせた。病院の秋の夜は、静かに更けて行った。
「ふッふ」と、立っている男は吐き出すように笑った。「中からドアに鍵をかけた以上、誰にも邪魔されずに、ゆっくり僕の計画を遂行することが出来るんだ。君はもはや鷹につかまった雀《すずめ》と同じだ。僕は君が苦しんで、苦しんで、苦しみ抜いて死んで行くところを静にながめたいのだ。思えば、この時機をどんなに待ち焦《こが》れたことか。復讐というものは、辛抱の足らぬ人間には到底堪え難い重荷だが、僕は蛇のように執念深く辛抱したよ。そうして、とうとう、今のこの無限の喜びに接し得られたよ」
 こういって男はきびしくにやり[#「にやり」に傍点]とした。それは悪魔の笑いであった。
「君は僕を毒殺しようとした」彼は幾分か声をふるわせて続けた。「ところが幸か不幸か僕はその毒をのまなかった。のむ前に発見したのだ。そうして僕はこのとおり助かった。けれども僕は、警察へは届けなかったよ。警察へ届けたのでは、復讐の快感を十分味わうことが出来ぬからねえ。つまり、僕は、僕自身の手で君に復讐しようと思ったのだ。
 そこで先ず僕は、内密に君が僕に与えようとした毒を分析してもらったよ。その結果、それがストリヒニンであると知れた。ストリヒニン! 猛毒だ。君は僕を、蛙が水泳ぎをするように手足をつんのめらせて、苦しみ悶えさせて殺そうとしたのだ。
 その恐ろしい君の心に対して、僕がいかなる計画を建てたと思う? 僕は先ず、ストリヒニンで殺されない体質を作ろうと思ったよ。君への腹癒せにね。君をあざ笑ってやりたいためにね。そのために、僕は凡《およ》そ一ヶ月かかったよ。即ち僕は毎日ストリヒニンを少しずつ分量をふやして嚥《の》み、遂に致死量をのんでも死なない体質になることが出来たんだ」
 彼はこういって、じっと病人の顔を見つめた。病人はマスクのような顔をして、身動きもしないで聞いて居た。
「それから僕は君を殺そうと思って、はじめて外出して、君の様子をさぐると、何でも君は災難にあって負傷し、この病院へ入れられたときいたので、今夜、病院の誰にも知られずにこうしてたずねて来たのだ。僕は、ここに、致死量のストリヒニンを含む丸薬を二粒持っている。これから、二粒の丸薬を二人でのもうと思うのだ。君にだけのませて僕がのまぬということは卑怯だからねえ。だが、僕は君と一しょには死にたくはないよ。僕は君に、ストリヒニンでは僕が死なぬということを見せ、君の苦しんで死んで行くところを思う存分にながめたいのだ。そうして勝利の快感が味わいたいのだ。何しろ、それのために、僕は一ヶ月間、世間と交渉を絶って、苦しい実験をして来たのだからねえ」
 こういって、彼はポケットから、小さなガラス壜を取り出した。彼はそれを病人の顔の近くへもって来て振った。壜の中では、二つの白い丸薬が仏舎利《ぶっしゃり》のように、乾いた音をたてて転った。
「さあ、これから、二人で、これを一つずつのもうよ」
 いいながら男は、その壜を床頭台の上に置いた。
 さっきから、病人はその眼をきょろきょろさせるばかりであったが、この時細い声を出した。舌が自由に動かぬと見えて、言葉がはっきりしなかった。
「まあ君、そんなに急ぎたまうな。僕はいつでもその毒薬をのむよ。僕は喜んで君の手に殺されよう。君に殺されりゃ、本望なのだ。僕は僕の行為――君を毒殺しようとしたことを、どれだけ後悔しているか知れない。それがため僕はどれほど苦しんだか知れない。君は殺そうとしたものが、殺されようとしたものの何十倍も何百倍も苦しまねばならぬということを知って居るかね? 僕はたしかに、君よりもはげしい苦しみをしたと思って居る。僕は、もちろん、君を毒殺し得たと思って、すぐ自殺を計ったのだが、それが、どういう因果か未遂に終って、こうして病院へ連られて来て、今では自殺する能力をさえ奪われてしまったのだ。僕は君が生きていよう
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