。ことによると、病院の人々に知れなかったのを幸いに、出来るなら永久に生命を完《まっと》うしようとするのだろう。なぜ君は男らしく僕と一しょに死なないのだ。僕は君のその女々しい心が恐ろしいよ。それはいわゆる救われない毒婦の心と同じだ。君の計画には、いかにも女々しい、ドラマチックなところがあるよ。だが、それと同時に女性の計画に見ると等しい破綻に富んで居るよ。そんな計画では到底僕を殺すことは出来ぬだろうよ」
 立って居る男の息づかいがだんだん荒くなって来た。
「君、僕は決して抵抗はしないよ。いや、抵抗しようと思っても、絶対に無力な僕だ。どうにでも君の欲するままにしてくれ。だが、君のその計画は到底遂行は出来ぬよ。出来るものならやって見るがよい」
「何?」と男は眼を据えて一歩近づいた。
「うむ、中々威勢があるね。だが君、短刀を持って来なかったのは、かえすがえすも君の手落だよ。何だったら、看護婦を呼んで短刀を借りたらいいだろう。というのは、その毒では到底僕を殺し得ない理由があるからだ。僕はその理由を聞かせてやりたいが、君のその女々しい心が憎いから、聞かせてやらぬのだ」
 立って居る男の憤怒は絶頂に達した。彼は歯を鳴らし、手をふるわせて、床頭台上の水瓶から、傍《かたわら》のコップに水を移し、手早く小壜の中から丸薬を取り出し、その一粒をベッドの男の口に投げるように入れ、次いでコップの水を注ぎこんだ。
 ごくりという音がした。
 立って居る男は暫くの間、じっと相手の顔を見つめた。
 病人の眼元には微笑が浮かんだ。
「君、君はなぜ、のまぬのだ。やっぱり君の話は嘘だったのか」
 男は黙って残りの丸薬を口に入れ、残りの水でぐっとのんだ。
 二人は暫くの間、顔を見合わせて、各々相手の様子をうかがった。苦しい沈黙が室内を占領した。
 五分間!
 ベッドの男は眼の色をかえなかった。突然、立って居る男がよろよろと動いて、その身体をぶるっと顫わせたかと思うと、はげしい苦悶の色がその顔に漲《みなぎ》った。と同時に恐怖の光が両眼にさっと走った。
「どうした君」と病人は叫んだ。「さては君、致死量のストリヒニンでも死なぬ体質を作ったというのは嘘で、僕と一しょに死ぬつもりだったのか。君にも、そんなやさしい心があったのか。それじゃ早く僕は君に話せばよかった。僕は爆烈弾のハヘンで鳩尾を破られ、その結果|食道瘻《しょくどうろう》が出来たのだ。食道の孔《あな》が、腹の表面と交通し、食物を口から取っても、腹の表面へ出て、口は用をなさなくなったのだ。だから、今まで僕は滋養|灌腸《かんちょう》で生きて来たのだ。君が今のませた丸薬と水は、腹にあててある繃帯が吸い取ってしまったのだよ。君、僕は君の心を卑怯だと誤解したために、このことをいわずに居たのだ。堪忍してくれ、君が死んでは、折角の僕の死期が失われてしまう。君。毒のまわらぬ先に早く僕の咽喉をしめて殺してくれ。おい君!」
 立って居た男は、その時どたりと床の上にたおれた。そうして、苦しそうにうめきながら、手にした小壜をながめて、何かいおうとしても、言葉が咽喉につかえて出ないらしかった。病人は、必死の努力をもって、頭をもたげてその様子をながめたが、やがて、頭を振向けて、床頭台の方を見るなり、恐ろしい声で叫んだ。
「やッ、君、君は、毒薬を間違えたなッ! 壜の栓でわかった。ああ二人がのんだのは、僕の枕の下にあったアコニチンだった! するとやっぱり……ああもう死んでしまったか。卑怯な男はとうとう死んでしまったのか。だが俺は、俺はどうしたらよいのか、俺はやっぱりいつまでも死なれないのか……」



底本:「怪奇探偵小説名作選1 小酒井不木集 恋愛曲線」ちくま文庫、筑摩書房
   2002(平成14)年2月6日第1刷発行
初出:「サンデー毎日特別号」
   1927(昭和2)年1月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:宮城高志
2010年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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