なことは無論誰でも行ひ得るといふ訳でなく、其の人の性質にも依《よ》り又練習にも依るであらうが、兎《と》に角《かく》人間にも動物に見る如《ごと》き冬眠状態の可能であることは疑ひ得ない。
 話は前に戻る。既に旧約全書の「天地創成」の部分には、神がアダムを「深き眠り」に陥らしめ、一本の肋骨を抜き取つたことが書かれ(この肋骨からイヴは作られ、英国の文豪トーマス・ブラウンは、この事から女の悪口を言つて「女は男の曲りくねつた肋骨だ」と叫んだ。)ホーマーの詩オヂツセーの中では、へレンがユリツシーズの酒盃《しゆはい》の中に、エヂプト産の妄憂薬《ネーベンチー》を投げたことが書かれ、ヘロドトスはマツサゲテーが大麻を燃し、その烟を吸つていい気持になつたことを書き其他|猶太《ゆだや》の経典タルマツド中の「サムメ・デ・シンタ」、アラビアン・ナイト物語中の「バング」(大麻の類)を始め、狼毒(マンドラゴラ)、毒人参《ヘムロツク》(哲学者ソクラテスが死刑に処せられて服用したもの)ヘルボア、鶏毒《ヒヨス》などの麻酔薬は何れも東西両洋に亘《わた》りて、古代の人民に知られたもので、それ等に纏はる迷信も数多いが、茲には一々|之《これ》を書き記すことは出来ないから、欧洲の文学などに最も屡々現はれて来る狼毒《マンドラゴラ》に関する迷信に就て述べて見ようと思ふ。
 マンドラゴラは英語でマンドレークと称する。この植物は馬鈴薯《ばれいしよ》類に属するもので其の有効成分マンドラゴリンは、わが国に産する「きちがひなすび」の毒成分「アトロピン」と同じ作用を有するのであつて、往時人々は麻酔剤として用ひ、ことに屡々外科手術の際に応用した。たゞこの植物の形が丁度支那の人参《にんじん》と等しく人間の形をして居るために(即ち根が又をなして人の脚の形をして居る故《ゆゑ》)之に色々な奇怪な迷信が附せられるやうになつたのである。其の迷信の一つはこれに男性と女性があると信ぜられ、日本に於ける蠑※[#「※」は「むしへん」+「原」、読みは「ゲン」、第3水準1−91−60、92−3]《ゐもり》の黒焼と等しく所謂《いはゆる》「惚《ほ》れ薬《ぐすり》」として盛んに使用せられたことであり、その二は之を地より抜く際、物凄い叫び声を発し、其の声を聞いた者は皆気が狂ふといふ迷信である。従つて之を地から抜き取る際には、昔から犬を連れて来て犬に縛り附けて置いて
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