する学説でありまして、之《これ》に対抗して、生活現象は物理学や化学では到底測ることの出来ぬ一種の不可思議な力を借りて来ねば説明は出来ない、と主張するのが所謂|生気《せいき》説であります。この機械説と生気説とは、大昔から、学者の間の論戦の種となり、あるときは機械説が勝ち、あるときは生気説が勝ち、一勝一敗、現になお争論されつつあります。
試みにその歴史を申しますならば、原始時代には、人々はいう迄もなく、一種の霊妙な力によって生命が営まれるものと考えたにちがいありません。何しろその時代の人は、物を感ずることは出来ても、物を深く考えることが出来ないのですから、生とか死とかの現象に接すれば、それが精霊の支配によって左右されて居るものだと思うのは当然のことであります。ところが、段々と知識が発達して来ますと、人々は生命なるものに就て、特に考《かんがえ》をめぐらせて見るようになりました。断って置きますが、日本の科学思想の発達は極めて新らしいことであり、又、むかしの思想状態を知ることが困難ですから、ここでは西洋の例をもって述べることにします。さて、生命について比較的深い考察を行ったのはギリシャ人でして
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