人工心臓
小酒井不木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)抑《そもそ》も

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)苦心|惨憺《さんたん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)にやり[#「にやり」に傍点]
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       一

 私が人工心臓の発明を思い立った抑《そもそ》ものはじまりは、医科大学一年級のとき、生理学総論の講義で、「人工アメーバ」、「人工心臓」の名を聞いた時でした。……
 と、生理学者のA博士は私に向って語った。A博士は曾《かつ》て、人工心臓即ち人工的に心臓を作って、本来の心臓に代《かわ》らしめ、以《もっ》て、人類を各種の疾病《しっぺい》から救い、長生《ちょうせい》延命をはかり、更に進んでは起死回生の実を挙げようと苦心|惨憺《さんたん》した人であって、その結果一時、健康を害して重患に悩んだにも拘《かか》わらず、撓《たゆ》まず屈せず、遂《つい》に一旦その目的を達したのであるが、夫人の死後、如何《いか》なる故か、折角の大研究を弊履《へいり》の如く捨てて顧みなくなった。私は度々《たびたび》、その理由を訊ねたが、博士はただにやり[#「にやり」に傍点]と笑うだけで、かたく口を噤《つぐ》んで話さなかった。ところが、ある日、私が博士を訪ねて、ふと、空中|窒素《ちっそ》固定法の発見者ハーバー博士が近く来朝することを語ると、何思ったか博士は、今日はかねて御望みの人工心臓発明の顛末を語りましょうといって、機嫌よく話し出したのである。ここで一寸《ちょっと》断って置くが、私はS新聞の学芸部記者である。
 …………人工アメーバと、人工心臓とは、共にアメーバなり、心臓なりの運動を、無機物を使って模倣し、生物の運動なるものは、決して特殊な、いわば神変不可思議なものではなく、全然機械的に説明の出来るものだということを証明するため、考案せられたものであります。あなたはアメーバの運動を顕微鏡下で御覧になったことがないかも知れませんが、アメーバは単一細胞から出来た生物で、半流動体の原形質と核とから成り、そこで原形質がいろいろに形をかえて、食物を摂取したり、位置を変えたり致します。その匍匐《ほふく》する有様《ありさま》を見て居《お》りますと、あるときは籬《まがき》の上を進む蛞蝓《なめくじ》のように、又あるときは天狗の面の鼻が徐々に伸びて行くかのように見えるのです。今、底の平たい硝子《ガラス》の皿に二十プロセントの硝酸を入れ、その中へ水銀の球滴をたらし、皿の一端に重クロム酸|加里《カリ》の結晶を浸しますと、その結晶が段々溶けて、皿の底面に沿って拡散して行き、中央の水銀球に触れると、恰《あだか》もその水銀球は、生物であるかの如く動き始め、一|疋《ぴき》の銀色の蜘蛛が足を伸ばしたり縮めたりするのではないかと思われる状態を出現します。これが即ち人工アメーバで、よく観察して居ると水銀はアメーバその儘《まま》の運動を致して居るのです。
 次に、人工心臓です。心臓は申すまでもなく、収縮と拡張との二運動を、律動的に交互に繰返して居《お》ります。心臓のこの律動的に動く有様を、やはり水銀をもって、巧みに模倣することが出来るのであります。即ち今、時計硝子の中へ十プロセントの硫酸を入れ、これに極少量の重クロム酸加里を加え、その中に水銀の球滴を入れて、それから一本の鉄の針を持って来て、軽く其《その》水銀球の表面に触れますと、忽《たちま》ちその球は、蛙の心臓のように動き出して、小さくなり大きくなり、所謂《いわゆる》収縮、拡張に比すべき律動性の運動を迅速に行うのであります。
 さて然《しか》らば、どういう訳で水銀球が、このように生物のような運動をするかと申しますと、すべて液体は、外物と触れて居るその境界面に一種の力をあらわすもので、通常これを表面張力と申して居《お》ります。液体の内部では、凡《すべ》ての分子が上下左右前後から、同じ力で牽《ひ》かれて居《お》りますけれど、液の表面におきましては、其処《そこ》にある分子は、裏側からは液体の分子によって牽かれ、外側からはその触れて居る物質の分子によって牽かれます。水の上に油を滴《た》らすとき、油が水の上に拡がるのは、水の表面張力が油のそれよりも大きいからです。又水銀を水の中に滴らすと水銀が球形を呈して居るのは、水銀の表面張力が水のそれよりも大きいからです。そこで今仮りに、その水が水銀に接して居《お》る一部分の張力を水銀よりも強からしめるか、あるいはその反対に水銀の張力を減少せしめたならば、弱い部分は強い部分に較べて縮むことが少く、水銀球は歪みます。前述の人工アメーバに就て言うならば、重クロム酸加里と水銀とが、硝酸の溶液中で触れ合うと、その部分にクロム酸水銀と称する物質が
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