出来て、水銀の表面張力が弱められます。従って水銀の形が変るのですが、クロム酸水銀は硝酸に溶け易い物質ですから、水銀の表面張力は元に返ります。すると当然水銀の形も、元に戻り、外部から見て居ると、水銀が一運動したことを認めます。そうして次の瞬間更に重クローム酸加里と水銀とが接触し、同じことを繰返しますから、水銀は休むことなくアメーバ様の運動を行うのであります。
次に人工心臓の現象はどうして起きるかと言いますと、硫酸液中の水銀に鉄の針を触れますと酸性の液の存在のために、接触電気が起って、その電気は金属と液体とを伝わって流れます。するとその際液体の電気分解が起り分解産物たる、陽電気を帯びた水素イオンは、陰電気を帯びた水銀の表面に着きます。すると水銀の表面張力が高まって水銀が収縮します。収縮すれば鉄の針との接触がはなれて、もとの大きさに膨《ふく》らみ、膨らめば針に触れて再び電気が起って縮み、かくて同じ運動を律動的に繰返し、外部から見て居ると、心臓の運動の如くに見えるのであります。
二
かようなことを長々説明しては定めて御退屈でしょうけれども、私が人工心臓を思い立った動機がここにあるのですから、人工アメーバと人工心臓のことを委《くわ》しく申し上げたのです。然し、無論、私の発明しようとした人工心臓なるものは、今御話し致しました人工心臓とは根本的にちがったものであります。それについては追々《おいおい》申し上げるとして、さて、生理学総論に於て、私たちは、前述の人工アメーバや人工心臓のように、凡ての生活現象なるものは、それがたといどんなに複雑なものであっても、純機械的に説明し得《う》るものであるということを繰返し繰返し説ききかされたのであります。そうして生活現象を説明するには、何も不可思議な力の存在を仮定しなくても、物理学、化学の力によって、十分に説明が出来るものだということが、私の頭に深く刻みこまれました。今になって考えて見れば、水銀がたといアメーバの様の運動をしたとて、水銀は畢竟《ひっきょう》水銀であってアメーバではなく、同じくまた水銀は心臓ではあり得ないですけれども、若い時は何事につけても妥協が仕難《しにく》いものですから、私は所謂機械説の極端な信者となったのであります。
機械説とは即ち唯今申し上げたように、生活現象の悉《ことごと》くを、純機械的に説こうとする学説でありまして、之《これ》に対抗して、生活現象は物理学や化学では到底測ることの出来ぬ一種の不可思議な力を借りて来ねば説明は出来ない、と主張するのが所謂|生気《せいき》説であります。この機械説と生気説とは、大昔から、学者の間の論戦の種となり、あるときは機械説が勝ち、あるときは生気説が勝ち、一勝一敗、現になお争論されつつあります。
試みにその歴史を申しますならば、原始時代には、人々はいう迄もなく、一種の霊妙な力によって生命が営まれるものと考えたにちがいありません。何しろその時代の人は、物を感ずることは出来ても、物を深く考えることが出来ないのですから、生とか死とかの現象に接すれば、それが精霊の支配によって左右されて居るものだと思うのは当然のことであります。ところが、段々と知識が発達して来ますと、人々は生命なるものに就て、特に考《かんがえ》をめぐらせて見るようになりました。断って置きますが、日本の科学思想の発達は極めて新らしいことであり、又、むかしの思想状態を知ることが困難ですから、ここでは西洋の例をもって述べることにします。さて、生命について比較的深い考察を行ったのはギリシャ人でして、凡《およ》そ今から二千七八百年|前《ぜん》のことです。即ち、その時代に、ギリシャに自然哲学者が出まして、宇宙及び人類の生成について考え万物の本源を地水火風の四元素に帰し、この四元素が離合集散して万象を形成して居るのだという所謂機械説を樹《た》てたのであります。
ところが、その後同じギリシャに、プラトン、アリストテレスなどが出まして、人間に就て深い研究を行った結果、精神と肉体をはっきり区別し、精神を主とし、肉体を従と致しましたために、精神現象は機械的には説明出来ぬという所から、生気説が復活するに至りました。そうしてこの生気説は、キリスト教の起るに連れて、宗教的色彩を帯び凡そ千年間というもの人々の心を支配して居《お》りました。
すると第十六世紀になって所謂文芸復興期が来《きた》り、今日の科学者の先駆があらわれ、人体の解剖生理の学が発達して、再び機械説が勝利を得、あらゆる生活現象を物理学及び化学の力のみで説明しようとする、医理学派、医化学派などと称する極端な学派があらわれました。
然るに、第十八世紀の末にハラーという大生理学者があらわれ、生物にのみ特有で、無生物には見られない現象を指
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