ランゲの説で巧みに説明し得《う》ることを知りました。即ち恐怖のときには心臓の鼓動が遅くなり甚《はなは》だしい時には停止します。これは即ち、心臓の鼓動が遅くなり又は停止するために恐怖心を抱かしむるに過ぎないのです。だから、若し人工心臓を装置して、たえず変らぬ打ち方をせしめたならば、恐怖の感は起り得ないにちがいありません。
 かく考えると、私は一日も早く恢復して、人工心臓の第二段の研究に取りかかりたいと思いました。幸いに咯血は五回で止みまして、その後の経過も順調に進み、凡そ一ヶ月半の静養で再び起《た》って働くことが出来るようになりました。私を診療してくれた友人は頻りに転地療養をすすめましたが私は頑としてきかず、妻も私の心に同情して、私たちは再び人工心臓の研究に取りかかりました。あの時、友人の言葉に従って置けばよかったものをと今から思えば後悔の至りです。転地療養は私のためというよりも寧《むし》ろ妻のために必要だったのです。妻は私を看病する時分に既に可なり肺を侵されて居たらしいのでしたが、彼女も私と同じく強情な性質《たち》でしたから、少しもそんな様子を私に見せませんでした。

       八

 人工心臓の第二段の研究、即ち一旦絶命した動物を人工心臓によって生き返らせる研究は、思ったほどむずかしいものではありませんでした。私は家兎《かと》に種々の毒物を与えて絶命せしめ、心臓の最後の搏動の止むのを待って直ちに胸廓を開き、人工心臓を備えつけて実験しましたが、死の直後五分間以内にとりかかるならば、再び家兎の意識を恢復せしめ得《う》ることがわかったのです。然し五分以上経過すればもはや駄目でした。況《いわ》んや、死んで冷たくなった死体を生き返らせることなどは、夢にも希望が持てませんでした。然し、初めて、一旦死んだ家兎を極めて簡単に甦らせ得た私たちは、あまりに呆気《あっけ》ない思いをしながらも、嬉しさに研究室の中を飛び廻ったものです。尤《もっと》も、口で御話しすればこれだけのことですけれど、犠牲にした家兎は随分多数でした。即ち、家兎を殺すために用いる毒物の選択が可なりにむずかしいのでした。自然に死ぬのを待つことは出来ませぬから、人工的に死なせなければなりませんが、毒物の中には血液の性質を色々に変化せしめるものがありますから、随分困難な時もありました。而も一つの毒を用いた時だけに成功しても、他の毒を用いた時には成功すると限りませんから、出来るだけ多くの場合を試みて置く必要があり、従ってその努力は大したものでした。
 もともと人工心臓は人類の恐怖を救うのが目的ですから、家兎に成功すれば、これを人間に応用する必要があります。――私は今、人類の恐怖を救うのが目的だと申しましたが、咯血をした以後は、他のことを顧みる遑《いとま》なく、ただもう、人類の恐怖から救えば、楽園を形成することが出来ると思ったのです。恐怖のない世界! それは何という嬉しい世界でしょう?――で、先ずその次の階段として、家兎よりも大きな犬について人工心臓を試みることにしました。犬に対してはただ大きな喞筒《ポンプ》を用うればよい訳でして、手術などには何の変ったところもなく、ただ家兎の場合と違って居るのは電力が余計に要るぐらいのものです。無論犬については、一旦死んだのを甦らせる実験だけを試みたのですが、その結果、犬では死後十分間以内に取りかかれば目的を達することがわかりました。つまり動物が大きければ、人工心臓の取り附けは幾分遅くなってもかまわないということがわかりました。これは多分血液の凝固性の大小に基くものだろうと考えました。すべて小さい動物の血液ほど早く凝固します。死後にはいう迄もなく血液が凝固しますが、血液が凝固してからでは、もはや人工心臓は役に立ちません。いずれにしても私は、犬よりももっと大きな動物ならば、死の直後から人工心臓を取りつけにかかる迄の時間は、もっと長くてもかまわぬだろうとの推定のもとに、人間と同じ体重の羊を選んで実験しましたところ、果して、死後十五分過ぎて取りかかっても、たしかに甦らせることが出来ました。今度はもう人間です。何とかして人間について実験して見たいと思って居ると、何という運命の皮肉でしょう。私が人工心臓を実験した最初の人は、人工心臓の発明を手伝ってくれた妻の房子だったのです。
 ある日妻は突然、研究室内で卒倒しました。私はとりあえず、妻を抱き上げてベッドの上に移し、赤酒《せきしゅ》を与えると、間もなく意識を恢復しましたが、額に手を触れて見ると火のようにほてり[#「ほてり」に傍点]ましたから、検温器をあてて見ると、驚くではありませんか、四十一度五分の高熱です。私は直ちに氷嚢を拵《こしら》えて冷やしてやり、例の内科の友人に来てもらいました。私が友人から病名をきい
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