思いました。白いシーツの上には紅黒い大小の斑点が染め出され、洗面器を支える妻の手は頻りに顫《ふる》えました。瓦斯灯はじじ[#「じじ」に傍点]と音を立てる、夜はしーん[#「しーん」に傍点]と静まりかえる。血を咯く私は一種の厳粛な思いに襲われました。
 然し、幸いにその咯血はとまりました。咯血の終った跡の心持は、一寸《ちょっと》形容が出来ません。頭は一時はっきりと冴えかえりました。が、暫くすると、ぽーっとした気持になりました。が、それも束《つか》の間、そのあとで猛然として一種の不安が襲って来ました。
 恐怖です。堪え難いような恐怖です。生れてからそれ迄一度も感じたことのないような恐怖に私は襲われました。いう迄もなく、また間もなく咯血が始まるだろうと思うために起る恐怖です。それはやはり「死」の恐怖であるかも知れません。然し、どういう訳か、私自身は死にもまさる恐怖だと思いました。私はそのためにそれから眠ることが出来ませんでした。恐ろしくて眠れないのです。眠ればまたきっと咯血を起すにちがいないと思うとじっとして眠れないのです。肺臓の中で破れた血管は外部からは手のつけようがありません。医師はただ黙って傍観するだけでして、止血剤など何の役にも立ちません。血管が破れたまま捨てて置く……何という恐怖でしょう。私はそれまで患者を診察しても、患者の恐怖心については一度も考えたことがありませんでした。私はその時初めて自分で病気したことの無い医師は患者を治療する資格はないと痛感しました。咯血時の恐怖さえ除いてくれたならば、咯血そのものは何でもないとまで思うに至りました。医学の最大の任務は、病気そのものの治療にあるのではなくて、病気に対する恐怖心を除くにあると悟りました。
 私は眠れない不安を除くために、妻を煩わしてモルヒネの注射をしてもらいました。とても通常量ではこの恐怖を除くことは出来まいと思って、少しく多量に注射をしてもらいました。するとどうでしょう。一時間経たぬうちに、恐ろしい不安はすっかりなくなってしまいました。そうして、いつの間にか、心地よい夢路を辿って居《お》りました。あなたはモルヒネを摂《と》った経験がおありですか。又、『オピアム・イーターの懺悔』という書を御読みになったことがありますか。兎《と》に角《かく》、モルヒネを摂ると夢とも現《うつつ》ともわからぬ一種の快い世界へ引きこまれて行きます。その世界には恐怖というものがありません。それは時間と空間とを超越した快楽の園です。
 ふと、気がついて見ると、私の耳のそばで虻のうなるような音が聞えました。はてなと思って耳を澄ますと、シュー、シューという水の迸《ほとばし》るような音がします。私は妻と共に、××公園を散歩して、滝の音を聞きつつ、秋の太陽に思う存分浴して居るのかと思いましたが、よく考えて見ると、私は寝床に居《お》ります。これはと思って傍《かたわら》を見るとモーターが頻りに廻り、陰圧発生機と酸素供給器とが活動して居《お》ります。
 人工心臓! そうだ、自分は人工心臓を装置して貰ったのだ。人工心臓の快さ! 恐怖を知らぬ人工心臓! 人工心臓こそは病気に対する恐怖心を完全に除くものだ! 人工心臓こそは人をして楽園に遊ばしめるものだ! 何という平安な世界であろう!
 はっと思った途端、けたたましい咳嗽と共に又もや咯血が始まりました。楽園は急転して地獄の底と変りました。人工心臓のモーターと錯覚したのは、咯血によって生ずる腹《むね》の鳴り音に過ぎなかったのです。その鳴り音をモルヒネの作用によって、人工心臓から生じた安楽の世界として誤認させられたに過ぎませんでした。咯血はコップに三杯ばかりで止みましたが、恐怖心は再び猛烈に私を襲って来ました。即ち、モルヒネの作用が消滅したからです。
 私は仰向きに静臥《せいが》しながら、つくづく人工心臓にあこがれました。人工心臓は私が夢で見たごとく、たしかに疾病の恐怖を救うにちがいないと考えるに至りました。私が人工心臓の発明を思い立ったのは、人間を死から救い長生延命の実をあげるためであったのですが、死の恐怖にもまさる咯血の恐怖を経験してからは、「疾病の恐怖」を救うだけのためにも、人工心臓を完成しなければならぬと考えました。
 ことにその時私は、かねて心理学の講義で聴いたランゲの説を思い出しました。ランゲの説とは、例を取って言いますならば、私たちが恐怖の感を起すのは、恐怖の時に起る各種の表情をするためだというのです。即ち平易な言葉でいうならば、恐ろしい感じが起ったから髪が逆立ち顔が蒼くなるのではなく、髪が逆立ち顔が蒼くなるから恐ろしい感じがするのだという、いわば極端な機械説なのです。咯血をしても、機械説だけは相変らず信じて居た私は、人工心臓によって恐怖のなくなる理由をこの
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