ったならば、屹度《きっと》肺の窒素固定機能が盛んになります。即ち消化管に代って、肺臓が人体の栄養を司《つかさど》ろうとします。飢餓断食の際、水を飲むばかりで何週間も生きて居《お》られるのは、肺が窒素を固定する為であるにちがいありません。飢餓を任意に行うとき、実験者が静臥《せいが》して居るほど飢餓を長く続け得《う》るのは、静臥によって瓦斯交換の仕事を減少し得《う》るために、反対に窒素固定機能が旺盛になると解釈するのが、最も適当であろうと思われます。又、かの肺結核の際、患者が著しく羸痩《るいそう》して、蛋白質を多量に補給しなければならなくなるのは、肺臓が結核菌のために冒されて、窒素固定作用を減弱せしめられるためだと考うべきでありましょう。
 そこで若し、肺臓が瓦斯交換を行わないでもよくなったとしたならば、その肺臓は全力を尽して窒素固定を行うにちがいありません。そうしてその窒素固定によって人体の栄養分が補われるとしたならば、もはや、恐らく食物として蛋白質を口から摂取する必要は無くなるではありますまいか。人体は体重一|瓩《キログラム》について一日二グラムの蛋白質があればよいという計算をした人がありますが、若し肺臓細胞の全部が窒素固定に従事したならば、それだけ位の栄養分は容易に作りあげるだろうと考えます。だから人工心臓の発明を完成し、それに附着する人工肺臓によって肺臓の瓦斯交換機能を代用せしめたならば、人間の食物を大いに軽減することが出来、なお進んで研究して行ったならば、或は人間は食物なしで生きて行けるようになるかも知れません。……などと私はその当時空想して、一日も早く大学を卒業し、人工心臓の発明に従事しようと思いました。

       六

 愈々《いよいよ》大学を卒業するなり私は生理学教室に入れてもらい、主任教授の許可を得て、人工心臓の研究に取りかかりました。私は事情あって、在学中に結婚しましたが、自宅から大学へ通う時間が惜しいので、主任教授の許可を得て、教室内の一室に夫婦で止宿《ししゅく》させて貰いました。妻も私の研究に非常に興味を持ち、私の助手として働いてくれました。私たちは朝|夙《はや》くから夜|晩《おそ》くまで働きました。市中とはいい乍ら、広い大学の構内の夜は森閑として、天井の高い研究室に反射する瓦斯灯の光は、何となく物寂しさを覚えしめましたが、実験動物を中に挟んで、希望に輝く眼をもって、にっこり顔を見合せるとき、私たちは、いつも、測り知れぬ喜びに浸りました。実験が思わしく進まぬとき、屡《しばし》ば私は徹夜して気むずかしい顔をしながら働きましたが、そのようなとき妻もまた徹夜して、どこまでも私の気を引き立てるようにつとめて呉れました。幾度も失敗に失敗を重ね、殆んど絶望の淵に沈もうとしたとき、私を救い、力づけて呉れたのは妻でした。妻が居なかったならば、到底人工心臓の発明を完成することは出来なかったでしょう。その妻も今ははや死んで居《お》りません。そうしてその妻の死によって、私は折角完成した発明を捨ててしまわなければならなくなりました。何という不思議な運命でしょう。私はその当時の苦しかったこと、楽しかったことを思うと、今でも胸の高鳴るのを覚えます。
 いや、思わずも話が傍道《わきみち》に入りましたが、さて、人工心臓の発明にとりかかって見ますと、学生時代に想像したほど、その完成は容易なものではないということがわかりました。そうして私は、恐らく、これ迄、人工心臓の発明を思い立った人はあっても、それを実現することが出来なかったために、文献にも何等の記載が無いのであろうと考えるに至りました。
 通常生理学の実験は、先ず手近な蛙について行うのを便利とされて居《お》りますが、人工心臓の実験をするには、蛙はあまりに小さすぎて、細工が仕難《しにく》いですから、私は家兎《かと》に就て実験することに致しました。いやもう、その家兎を幾疋死なせたことでしょう。凡《すべ》ての実験は必ず家兎を麻酔せしめて行いましたが、いかに人類を救うために企《くわだ》てられた実験とはいえ、今から思えば家兎に対して申訳ない思いが致します。世間の人々は、科学者を無情冷酷な人間と誤解し、実験動物を殺すことに興味を覚えるほどの残忍性を持って居ると思う人もあるようですが、強《あなが》ちそういう人間ばかりではありません。私が中途で幾度か実験を思い切ろうかと思ったのも、実は家兎を苦しめるに忍びなかったからであります。
 実験の順序は、先ず家兎を仰向けに、特殊の台の上に固定し、麻酔をかけて、その胸廓の心臓部を開き、更に心嚢《しんのう》を切り開いて、それから私たちの考案した喞筒《ポンプ》を、心臓の代りに取りつけるのであります。といってしまえば頗《すこぶ》る簡単ですけれど、扨《さて》その手術
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