ガス》交換であります。即ち全身を流れて炭酸瓦斯を含んで居る静脈血は、心臓から肺に送られて炭酸瓦斯を捨て、外気の酸素を取って動脈血となり心臓に返って全身に送られます。ですから、人工心臓を作ると同時に静脈血炭酸瓦斯を吸収又は発散し、同時に酸素を与える装置を附けたならば、もはや肺臓は不用の道具となってしまいます。そうすれば肺臓は如何に結核に冒されようが、何の痛痒《つうよう》も感じません。従って、肺結核問題はたちどころに解決されてしまいます。ことに人工心臓に、いわば人工肺臓を附着せしめて置くときは、人工心臓を人体に備えつける際に、その手術が非常に簡単になる訳ですから、まさに一挙両得というべきであります。
が、人工心臓に人工肺臓を附着せしめて、肺臓を瓦斯交換の仕事から解放するときは、ここに一種の珍らしい現象が起るであろうと私は考えたのであります。それは何であるかというに、若し肺臓の細胞を瓦斯交換の仕事から解放したならば、恐らく人間の食物を非常に節減出来るだろうということです。従って、人工心臓の問題は、単に疾病の悩みから人間を救うばかりでなく、場合によれば、食物問題の悩みからも人間を救い、凡ての人間は所謂、仙人と同じく、霞を喰べて生きて行くことが出来るだろうと想像したのであります。
人工心臓の発明ということに就ては、これまで多少考えて見た学者もあるかも知れませんが、肺臓を瓦斯交換の仕事から解放することによって、食物を非常に節減出来るだろうと考えた人は恐らく私が始めてであろうと思いますから、それに就て一|言《ごん》申し上げて置くことにします。
五
かねて私は、空気の中に大量の窒素《ちっそ》が存在することに就て不審を抱いて居《お》りました。実に窒素は空気全量の五分の四を占めて居《お》りまして、而も人類の生存に取っては何の利益もないと考えられて居《お》ります。すべて物ごとを目的論でもって解釈するのは危険かも知れませんが、私はこの空気中の窒素も酸素と同じく人類の生存に役立つものであるに違いないと思ったのです。同じ空気の中の酸素が、人類の生存に一刻もなくてはならないのに、酸素の四倍の量に当る窒素が無意義に人体に出入りして居るということはどう考えて見ても矛盾です。そこで私は、窒素は決して無意義に人体に出入りして居るのではない。無意義だと思うのは、人間が窒素の価値に気
前へ
次へ
全24ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング